「死ぬなら、がん」というのは案外…
はじめに
インターネットの記事で『じつは「老衰死」は悲惨…医師たちが「死ぬならがん」と口をそろえて言う「意外なワケ』という記事を読んだ。それでいろいろ思うところもあり、自分なりの意見を書いてみようと思った。自分の親も最後はガンが見つかり、最後まで看取った経験からも、必ずしもガンが悪いとも思わなくなったからである。
『じつは「老衰死」は悲惨…医師たちが「死ぬならがん」と口をそろえて言う「意外なワケ』
https://news.yahoo.co.jp/articles/b82aef436dfeff0c9359c3ca5d1d55aeb741c757
この文を書いたのは医者だが、多くの患者さんと向き合ってきて、いろいろ感じるところがあったのかとも思う。本当に「望ましい最期」ということについても考えさせられる。この記事は講談社の現代新書『人はどう死ぬのか』久坂部羊という本を再編集したもののようだが、読みたくなってきた。
ガンというとマイナスイメージしかないのだろうか
この記事では死に方の人気ランキングということで、医者が回答しているが、一位が「ガン」だそうだ。私はいわゆる「ポックリ死」だろうと思っていただけに、そんなことはないだろうと思っていたが、意外とポックリ死というのは苦しむようだ。我が事として考えると、それは嫌だなあとも思うが、心筋梗塞、脳梗塞、クモ膜下出血など、高齢になれば気をつけなければならない代表格のような気もする。身近で起こした人も見てきたし、実際のところは、言葉のとおり「ポックリ」と一瞬では終わらないとも思う。
記事では「がんで死ぬことの効用」としていろいろ書いてあるが、なるほどと思うことも多い。
父を看取って
数年前に父が亡くなったが、亡くなる半年くらい前に病院へ行った時に癌が見つかり、しかも1つではなく、動脈瘤もあるということで、手術するように医者にも勧められた。しかし、それぞれの専門の部署の医師と相談したが、全て総合して考えた上、子である私や兄弟とも相談し、手術など治療は行わないことにした。
年齢が90歳ということもあり、リスクが高すぎたこともある。しかし、それ以上に思ったことは検査のために皮膚の一部を切ったり、痛いと訴える姿を目にした時、もうやめてくれと言いたくなったこともある。認知症も進み、デイサービスにも通い、それなりに落ち着いて過ごしてもらいたいと思っていたので、「手術だ、入院だ」と辛い思いはさせたくなかった。だから「治療はけっこうです。ただ痛みとか苦しんでいる時には緩和治療はしてほしいです。」と医師にも伝えた。
最後まで自宅で過ごし、在宅ケアという選択をしたが、母が亡くなった時は病院に入院し、そのまま自宅には戻れないまま、病院で亡くなったこともあり、生前、病院のベッドで、「家に帰りたい」とこぼしたこともあったから、父には家にいてもらう方がいいのだろうとも判断した。
環境的に兄弟で助け合えば何とかなるし、ケアマネージャーさんも良い方だったので、これが最善だったのだと今も思える。
長生きが本当に幸せなんだろうか
記事の中では
と書いてあるが、まったくその通りだと思った。今の時代、延命措置なども発達し、生きてはいるけど、ずっと病院の中ということもある。従兄弟が意識のないお母さんをどうするかと医師に問われ、延命の措置をしてくれと頼んだそうだが、かなり長い間の入院だった。もちろん意識はないままで。
そんなことも聞いていたし、長生きと言っても単純に幸せなどとは思えないことも多いのかと思う。我が事として考えたら、絶対に嫌だと思うし、延命措置など一切拒否するとも伝えてある。
さらに記事の中では
とあるが、本当に自分の今までの様々な経験からそう思う。
同級生の友人が癌で亡くなったが、ステージ4で見つかってから、あっという間だった。とてもショックだったが、「寿命」とか「生き方」についていろいろ考える機会になったとも思う。今、生かされていることをありがたく思うし、それこそ、あるお笑い芸人さんの言葉じゃないが、「生きてるだけで丸もうけ」というのも本当だと思える。お金に囚われ、十分に幸せなのに、幸せとは感じられない人もいるし、勝ち組でもなく、お金持ちでもないが、幸せだと思いながら、過ごしている人もいる。
上手に生きるには
上手に生き、上手に死ぬことができるようにするにはどうすればいいのだろうとも思うが、それはやはりすべてのものへの「感謝」なのではないかとも思う。人でもモノでも何でも感謝して通るということが何より、幸せに導かれる近道なのかとも思うが、いかがだろう。