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不登校も出社拒否も、ただ居場所がほしいだけなのか
イキイキと生きているか
どうしたら人はイキイキと生きていけるのだろう。世の中には学生さんの不登校や、社会人でも出社拒否とかがあるが、結局は自分の居場所が普通にあればいいだけの話なんじゃないかと、ふと思った。何らかの理由でその居場所に居られなくなったから、そうなるのであり、理由も千差万別だろうとは思うが、心に痛みを抱えたまま、先に進めないでいるような人が多いようにも思う。
どうしてこんなことを記事に挙げるのかというと、自分にもそんな経験があったからであり、運よく?幸いに?自分は抜け出せたから、今こうやって書くこともできるのかと思っている。それならそれで、経験をもとにいろいろ書いて、人に読んでもらうことにも意義があるのではないだろうか?
悩みも千差万別
先日、映画「マイ・インターン」の感想のような記事を挙げたが、あの映画で主人公のベンをはじめ、皆がイキイキと働いている場面もあれば、それぞれ問題を抱え、イキイキとはならず、日々を過ごしている場面もあったように思う。若い人が、今の仕事でいいのだろうか?とか、本当にやりたいことはこれなんだろうか?とか、辛くてもうやめたい、逃げ出したいとか、或いは、こんなラクしてて、このまま歳を取っていくのだろうか?とかいろいろあるのかと想像している。
安全装置に救われる
実は筆者は、出社拒否というのは2回ある。一つは若い時で、一つは五十を超えてからである。どちらも原因は人間関係と言えるが、どちらも共通していることは「もう限界だ。これ以上はムリ。自分が本当におかしくなる。」となった時である。世の中にはそれを越えて不幸な結果になってしまったということもあるのかもしれない。幸い、自分の脳には「安全装置」が付いているのか、限界ギリギリまで来たら、「安全装置」が働いてくれ、フラッとどこかに消えてしまい、最悪の結果にはならないようである。しかし周りの人には心配をかけてしまうことになるから、考えモノでもあるが…。
精神科とか心療内科とかカウンセリングなどもあり、筆者もお世話になったことがあるが、筆者自身は対症療法をやっているだけに過ぎないようにも思う。決して役に立たないとか言っているのではなく、怪我や病気と同じで、治療はしてくれるが、治る治らないは本人の問題だということだ。言い換えれば患部が「心」なのだから、比較的すぐ治る場合もあれば、時間がものすごくかかる場合もあるように思う。
「逃げる」はマイナスではない
それと付け加えたいのは逃げることも大事だということだ。「逃げる」というと「無責任」とか、「卑怯」とかマイナスイメージも付いてくるのかもしれないが、最悪の事態よりは数億倍マシである。
先ほども言ったように患部が「心」なのだから、それ以上無理したら、治るものも治らなくなってしまうとか、治療に時間がかかってしまう。だいたいそうなるのは「真面目な人」「責任感が強い人」とか言われるが、それが逆にアダとなることが多いとも聞く。
「逃げる」というと、聞こえが悪いのかもしれないが、退避して客観的に冷静に自分を見つめ直す時間を作るということだ。先ほども書いたが医者は対症療法をやっているのであって、症状が眠れないとなれば睡眠薬、不安でどうしようもないと言えば安定剤と処方する。それらで緩和されればいいのである。しかし、たいていの場合、一気に完治して元気に復活というようなことはないのである。自分の中で葛藤し、心の傷を癒していくのにはかなり時間が必要な気もする。怪我や病気と同じで、カラ元気で無理すれば、悪化することだって有りうる。
適応障害
自分の経験を書くが、精神科に通っていた時、自分は今、どうなっているのか、「うつ病」なのか?、「このままどうなるんだ?」とか、不安なことばかり考えていた。その不安から「うつ病」や「精神病」関係の本を買いあさり、ひたすら読んだりもしていた。そうでもしていないと自分がおかしくなってしまいそうになるのだが、そういった行動をする人は少なくないらしい。「適応障害」と診断されたが、ひどくなれば「うつ病」になるとも言われた。どうすることもできず、逃げることもできず、追い詰められ、自分では解決できずに八方塞がりが続いて、おかしくなっていく。
話をタイトルに戻すが、「居場所がほしいだけ」というのは、自分がそこにいて居心地がよく、心身ともに健康で活躍出来ていれば、何の問題もないのだが、そうなっていないからおかしくなるわけで、本当にダメなら熟考した上で、思い切って変えることもやればいい。
今の時代、医者に診断書を書いてもらい、提出すれば休職もできるのである。時間を作って自分を見直すこともすればいいわけで、逆にいいチャンスなんだと思えばいいのである。長い人生のほんの短い一部分なのだから。
あとは時期が来て実行に移せばいいのである。「やはり残って自分のできることを活かせるここでがんばろう」となるか、「きっぱりやめて新天地をさがそう」となるか判断するのは自分自身である。人に決めてもらうものでもない。筆者は2回経験があると書いたが、若いときは後者で、歳を取ってからは前者である。
心の傷
あれからもう15年かとも思うが、心に傷は残っているようにもいまだに思う。しかし、傷跡は残っていても、時間がたって治り、更に丈夫になっているようにも思う。その15年の間に同じような経験をしている後輩や知り合いにも会ったが、上記に書いたようなことも話したりもした。台風と同じで、その時はじっとしてればいい。長い人生の間で台風は何度かくるのかもしれないが、ずっと続くわけでもないのだし、必ず晴天の日もあるのだから。
今では心臓に毛が生えているとか、鋼鉄のメンタルを持っているとか、冗談でよく言われるが、本人はそうは思っていないし、そのように振舞っているだけだとも思っている。
居場所探し
最後になるが、「自分の居場所探し」は、ずっと続くのかもしれないということを言いたい。大きいけがをしたら病院のベッドかもしれないし、復職後のもとの職場かもしれないし、転職して新しい職場かもしれない。しかし、はっきり言えることは「自分で行動を起こし、自分で求めていかないと始まらない」ということだ。
その時期ではないと思うなら、もう少し熟考すればいいし、もう抜け出してやる!と気力が出始めているなら、動き出せばいいのである。案外、周りの人は気にしていないし、元気な姿を見せれば、軌道に乗っていくものなのかとも思える。もちろん無理は禁物だが。
精神科医でもなく、臨床心理士でもない筆者がアドバイスもおこがましいが、自分の実体験を聞いてもらい、少しでも何か感じ取ってもらえればと思う次第である。仮に今、療養中の方が読んでいるのだとしたら、次のことをお伝えしたい。
時間はかかるけど、今の筆者のように十何年か後にはNoteにでも経験を書いて、人に読んでもらえるようになるから、焦る必要はないですよ。
今は心を休める時だから。