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ジェンダーを超えたもの・ノンバイナリーとBL界隈

あるSNSのアプリをみて、「こういうのがあるのか・・」と見ていたらそのアプリのレビューにこういう意見が多くあった。

「性別のチェックが男性か女性かしかない」

ん?LGBTの方かな・・と思っていたのだけど、そのまま何も思わなかった。

しかし先日宇多田ヒカルさんが自分はノンバイナリーであるという記事があった。それをみた推し活界隈にいた10代の女の子が「私もそれだったー!」と自分について告白しているツイートを見かけた。

自分にあてはまる用語がわからず、自分はバイセクシャリティだと思ってたそう。

その流れをみていて、自分自身、男性か女性かのチェックで違和感やためらいを感じたことはないし、悩むことも一切なかったので、少々驚く。

でも女性でも宝塚スターにあこがれるように女性をかっこいいとか素敵ーと思うことはものすごくあるし、私自身もおおいにある。昔習っていたフラのレッスンですごくあこがれの先輩がいた。彼女の踊りはとびぬけて色っぽく、すごく美人でスタイルもいいが、性格はカッケーぐらい男前でまわりの人もちょっとあこがれてた。

ただノンバイナリーはそれとはちょっと違うかも。

今のジェネレーションZの世代はユニセックスな服を着る事が多いと聞く。女性だけど男性の服を着たり、男性だけど女性の服を着たり、あるいは男性、女性関係ないような服になったり。ここにも性別を越えようとする流れがある。

あきらかに私の世代よりかは若い世代のほうが性に関して決めたくない感じを強く感じる。

ノンバイナリーも私は初めて聞いた言葉だが

(身体的性に関係なく)自身の性自認・性表現に「男性」「女性」といった枠組みをあてはめようとしないセクシュアリティ。

ということだそう。

そこでふと思い出したことは萩尾望都さんの「一度きりの大泉の話」で竹宮恵子さんらが少年愛に夢中になっていて、それらの話を聞いて萩尾さんが少年愛にあまり興味がもてないというか何がいいのかわからない的なことを書いていらっしゃった。それを読んで

「【トーマの心臓】って何だったの?」という疑問が出た。

萩尾さんにとっては単なる友愛という感じだったようだが、いやいやこれが少年愛じゃ??

※知らない人のために「トーマの心臓」という漫画はドイツの寄宿学校を舞台とした少年たちの物語で、その中で少年同士の好きとか嫌いのやり取りがあり、どう読んでも少年愛のお話のように読める。

確かに竹宮先生からするとあれ??興味なかったのでは?という誤解を生む。

しかし、よく読んでいくと以下のような文章がある。

ただし、増山さんの言う「少年愛」のようなものとはたぶん違うなと、思いました。その分野はわからないから。傷つきやすい早春の少年たちの生活に入り込んで、何かを見つけたいだけだから。
のちのBLというジャンルが発展していったりする状況を見ていると、社会が提示していた恋愛と結婚のモデルや束縛に(男女はこういうもの、夫婦はこういうもの、という)懐疑的だった人々が、もっと違う愛の形を求めていた、そういう流れが始まっていたのかもしれません。
私が気が付いたのは「11月のギムナジウム」を描いた時の解放感です。女子校、男子校のバージョンを考えたせいか、女の子の窮屈さに気が付いてしまいました。
理論よりも心のワクワク感、少年は自由だ。描いてて楽しい。

「一度きりの大泉の話」萩尾望都 河出書房新社より

女性によるBL文化がこんなにも発展したのは、もしかしたら萩尾先生が書かれたようなことかもしれない。

その後も萩尾さんの漫画は少年や若い男性しかほとんど出てこない物語を多く描かれている。

なんとなく私は萩尾先生もノンバイナリー的な要素があるんじゃないかなーと思った。

実は萩尾先生のこれまでの漫画のキャラクターの中でもっとも私が好きなキャラがありまして、それは男性でも女性でもないキャラなのだ。

「11人いる!」のフロルという人物。SFなので多種な宇宙に住む人種が集まる話で、彼女(彼)は両性体で、男性になるために宇宙大学の試験を受ける。結果、彼女は女性になることを選ぶのだが、漫画の中では男性でも女性でもないキャラなのでやりたい放題ですごく楽しいキャラである。

フロルを中心としたスペースストリートというコメディ漫画があるんだけど、これが何より萩尾さんの漫画の中では大好物で何回も読んだ。萩尾さん自身もフロルのような自由なキャラを描いてて楽しかったのではないだろうか。

性に関する違和感を意識的にはこれまで思っていなかったけれど、どこかで男性、女性という区別をこえたいという無意識の欲求は誰でもあるのではないだろうか。

男性、女性関係なく、人間として一人をみて愛したいとか。

女性の場合と男性の場合は少し違いがあるかもしれないが、女性の場合はどうしても被害者としてなりうる可能性が高いということがあり、抑圧の強い地域もあるし、すんなりと女性であることに対して受け入れきれないような部分もある。

例えばよく映画とかにもあるけど、昔のヨーロッパでは自分の身を守るために男の子の恰好をする孤児の女の子とかもいた。ヨーロッパに限らずあったかもしれないけど。そういう繰り返しがだんだん性を手放す方向にもいくのかもしれない。

男性でも女性でもないフロルのような状態はいわば少年に近い。ヘルメスのような永遠の少年。熟さない性。

これはどんなことをあらわすのだろうか。

単純に自分の性を受け入れられないということなのか、性をこえて人類をみるということのあらわれなのか。

そのくらい私たちは性別に縛られているのかもしれない。なんとなくだけど、ノンバイナリー的な発言をする方の特徴としてちょっとHSPっぽい非常に繊細なタイプの人が多いので、全体的に感覚の繊細さが進んだ結果なのかもしれない。

私は女性専用で仕事をおこなっているけれど、そのあたりもどうなのかということも含めて考えていくテーマではあるなあと思う。


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