ほら、あなたの周りにも…

谷川健一『魔の系譜』(講談社学術文庫、1984年)

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魔が差した、通り魔、逢魔が刻…

今も僕たちの周りには「魔」が潜んでいて、時に跳梁跋扈する。

日本の歴史にも「魔」が影響を与えてきたという。日本では死者が生者を支配してきたのか。

谷川民俗学、ここに開幕―

【目次】

1「学術文庫」のためのまえがき/2 怨念の序章/3 聖なる動物/4 崇徳上皇/5 バスチャン考/6 仮面の人形/7 再生と転生/8 地霊の叫び/9 魂虫譚/10 犬神考/11 狂笑の論理/12 装飾古墳/13 あとがき/14 解説

京極夏彦クラスタを惹きつけそうなこの目次はどうでしょう。「11 狂笑の論理」など、夢野久作を思い起こさせます(実際に、本編でもよく引用されますが。)

日本の歴史や民俗に通奏低音として流れる「魔」をキーワードにして、様々な思想が繰り広げられる、谷川民俗学の原点となった一冊です。怨霊史観というと、梅原猛が思い浮かびますが、本書でも日本の歴史が「怨霊」への畏れで動いたという大胆な見方を提示しており、その後の研究に少なからず影響を与えたのではないでしょうか。

怨霊と歴史については(玉石混交ですが)多くの文献が巷に溢れておりますのでそちらに譲るとしまして、本書を通読して面白かった論考を紹介して、最後に本書を改めて振り返ってみたいと思います。

この本、かれこれ20年以上前に一度読んでおりまして、その頃は特に関心がなかったのですが、改めて読み返してみて「5 バスチャン考」の展開のすごさに驚かれました。

バスチャン?僕も含めて多くの人にとっては聞いたことのない言葉だと思います。これはカクレキリシタンの伝説的な人物の名であり、サン・セバスティアンに由来する人名です。伝説によれば、バスチャンは「バスチャン暦」というカクレキリシタンの暦を作成するなど伝道師として活動していました。しかし、幕府の手によって拷問の末に殉教ーマルチリ―します。その霊は神社にも祀られるなど、カクレキリシタンの間では殉教者として信仰されました。

と、ここまでは「バスチャン考」らしいのですが、この論考は途中から次第にバスチャンを離れ、カクレキリシタンの間に広まっていた「天地始之事」という文書の内容や、土着化して変容したカトリック信仰の話に次第に移っていきます。そして、その話はキリスト=苦しむ神という主題を浮かび上がらせ、そのテーマからなんと熊野本地譚、そして諏訪明神に飛躍していきます。この辺のスイングバイの仕方がスゴイ。あれ、カクレキリシタンどこいった、と思っている間に、話は諏訪明神の耳裂鹿の謎、柳田国男の「一目小僧その他」、フレーザーの殺される王へとどんどん話が転がっていく。そして、ようやく最後の数パラグラフで話はバスチャンへと戻り、カクレキリシタンの教義が受け入れられた素地として日本の伝承があったのだ、という結論にたどり着くのです。

こんなアクロバティックな展開はなかなか想像がつきません。情報の編集の妙を味わえる論考といえましょう。

さて、本書を通読して感じたことですが、怨霊とはつまるところ、生き残った者たちの後ろめたさのなせる業といっていいのかもしれません。勝者に対して恨みを飲んで死んでいった(かどうかは死んだ本人しかわからないわけで…)者たちとして勝者が恐れているモノ。それが怨霊として認識されます。そして、生き残った側は怨霊を「鎮める」ことで、コントロール不能な環境をあたかもコントロールし得るものに転換できる、そんな便利なコードとしても機能してきたのではないでしょうか。

こう考えると、果たして怨霊は勝者の恐怖の反映だけだったのか、という疑問がわきます。結局のところ、勝者は怨霊を恐れるフリをして、怨霊を利用することでさらに自分たちに有利に環境をコントロールして見せることができるわけです。例えば、虫送りの例が本編でもありましたが、害虫の発生という自然現象は人間はコントロールできません。それを、実盛の怨霊を鎮めることで害虫が来なくなったのだ、という具合に物語を作り上げれば、あたかも自然現象をコントロールしているという物語を手に入れることができます。前近代社会においては、実に有力な説明体系といえるでしょう。

谷川健一といえば、今も続く平凡社の雑誌「太陽」の初代編集長でした。文筆家の船曳由美氏によれば、谷川は「日本列島に息づいて暮らしている人間の実像に迫ることが何よりも大事なんだ」と常々語っていたそうです。

「怨霊―魔」というキーワードは、まさに日本列島に息づいて暮らしている僕たちの実像の一つを照らしています。本書でも「4 崇徳上皇」で触れられている有名な話ですが、明治天皇が即位したとき(先帝の孝明帝の時から計画されていましたが)、国家安寧を願って讃岐にあった崇徳上皇の御陵に直視を派遣し、京都に白峯神宮を創建しています。天下の大怨霊として聞こえた崇徳上皇の御霊を鎮めるためです。これが、近代日本のスタートである明治時代の初めの風景だったのです。

歴史学において怨霊を過度に重視する怨霊史観は批判の対象ともなってきました。しかし、人々の心性に注目した社会史的な視点からは、怨霊という心性の現れを研究対象として取り扱うことにも十分な意義があると思います。

なぜ、僕たちは戦争で亡くなった人々を祀るのか。日本のあちこちにある慰霊碑はどうして建てられたのか。自己物件が忌避されるのはなぜか。怨霊は決して遠い過去のものではありません。あなたの後ろにも、僕の身の回りにも、そう、日本の底にくっきりと揺蕩う心性の表出なのです。


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