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高校中退から国立大理系に合格できた話
みなさんこんにちは、森です。このnoteは筆者が高校を中退してから現在通っている国立大学理系に進学するまでの個人的な振り返りとなっています。似たような境遇の人が少しでも参考にできる内容であれば満足です。
簡単な自己紹介
23歳 男性
出身は兵庫県
現在、富山大学数学科4年生
注意
読む人によってはそんなことで病んでるんじゃないよと言いたくなるかも知れませんしごもっともだと思います。しかしあくまでこれは僕個人がそうであった(そうなってしまった)経験談であることを踏まえて、温かい目で読んでいただけると幸いです。
高校入学
高校入学から振り返っていきたいと思います。入学したのは兵庫県立加古川東高等学校普通科です。県内でも有数の進学校で、塾の先生たちのおかげでなんとか合格することができました(実は加古川東高校の理数科も受験したのですが、こちらは見事に完敗でした)。高校入試はかなり上手くいき、入学するまでの間は本当に希望に満ち満ちていた記憶があります。
しかしいざ入学してみると色々と上手くいかないことが出てきてしまいます。まず一つ目に、クラスにうまく馴染めませんでした。僕は地元が加古川ではなく、加古川より北に位置する北播磨というエリア出身です。当時は兵庫県の学区が再編成されたばかりで、北播磨から加古川東高校に入学ができるようになってから数年しか経っていませんでした。そんな状況ですから、うちの中学校から加古川東高校に進学する生徒は僕が初めてで、他に進学する生徒もいませんでした。要するに、田舎からちょい都会の進学校に一人で出てきたやつみたいな感じです。高校は加古川にあるので、当然加古川の中学出身の人間が多く、またお隣の明石市出身の人間もかなりの人数がいました。入学して初日、教室に足を踏み入れるとクラスにはもうすでにグループが形成されていてとても焦ったのを覚えています。みんな同じ中学とか同じ塾の人たちである程度かたまりを作っていて、中学も違う、塾も違う僕は初めからぼっちという立場で高校生活がスタートしました。当然仲良くしてくれる子とか喋れる子はいましたがクラスに真に馴染むことはできないままでした。
二つ目に学力についていけなかったというのがあります。中学時代、学校では常にトップ3、塾でもトップ層には位置していたのでそれなりに自信をもって入学しました。ですが、入学して最初のテストで総合順位が真ん中くらいだったことに結構ショックを受けました。得意だった数学でも学年で80番くらい(学年で360人くらい)で、「全然だめじゃん」と嘆いていましたね。もちろん、そこから立て直す人はたくさんいますし、入学したてなわけでまだまだ成長の余地はたくさんあります。しかし、当時の僕は人間関係でも上手くいかないし、勉強でも上手くいかないしで結構心を折られました。読んでいる方は「いや、早すぎでしょ」と思うでしょうし僕もそう思います(笑)。ですがクラスにうまく馴染めず疎外感を感じていた僕にとってはかなりショッキングでした。ここからだんだんと勉強できないコンプレックスが芽生えてきます。
部活に入る
入学早々、出鼻を挫かれた僕ですが、幸運にもすばらしい居場所を獲得します。それが部活動です。たしか6月くらいに先輩の紹介で自然科学部物理班・地学班(通称地学部)に入部します。本筋からは逸れてしますので部活動時代の詳細は割愛しますが、活動内容は物理の研究、チームによっては全国の研究発表大会で一位になるなど名の知れた強豪部でした。同期も先輩も優秀で良い人間ばかりで、そこで仲良くなった同期と一つ上の先輩はいまでも頻繁に連絡をとっているほど仲良しです。顧問にも恵まれ、多分この部活動に入ってなかったら死んでたんじゃないかと冗談抜きで思います。それくらい、当時の僕にとっても今の僕にとっても心の支えとなっている居場所です。
大学数学をやり始める
中学時代から数学が好きで得意でした。ある数学の先生が、授業の空き時間に高校で習う因数分解を問題として出題してくれて、それを一日中、他の授業時間にも考え続け、ついに解けたときの快感があまりにもすごかったのが一つのきっかけとしてあります。その先生が『数学ガール』というシリーズ本を勧めてくれたことによって一気に世界が広がります。『数学ガール』という本をざっくり紹介すると、高校生の男女が大学で習うような数学を一緒に紐解いていくという内容になっているのですが、当時学校の数学しか知らなかった僕は「こんな世界が存在しているのか!」といたく感動しました。当然、本の内容の大半は理解できなかったのですが、夢中になってシリーズを読み、僕もこんな数学をしたいなあと傲慢にも思い始めます。
高校に入学すると同じように数学をやっている人たちと交流するためにTwitterを始めました(今思えば、これが地獄への第一歩目になってしまうのですが…笑)。当時のTwitterには高校生から大学数学をバリバリにやっているとてつもなく優秀な人間が結構いて、僕はそういう人を片っ端からフォローしていきどんな本を読んで勉強しているのかを吸収したり、仲良くなったりしていきました。そんな感じで、高校数学すらまともにできないのに大学数学に手を出すようになります。
不登校になるまで
高校生活をスタートした僕がここからどんなふうに精神を病み不登校になってしまったのかを話していきたいと思います。恥ずかしく愚かなエピソードばかりです。ポイントは
・一部のクラスメイトに嫌われる
・コンプレックスの肥大化と自己嫌悪
です。
当時の自分
まず、当時の僕がどのような人間であったのかを不登校に関係のある側面を抽出して書こうと思います。
今の僕が当時の僕を分析して、当時の僕はとんでもないコンプレックス化け物であったと思っています。具体的に何に対してコンプレックスを抱いていたかというと、
・数学の不出来
・頭の悪さ
です。県内有数の進学校に進学し、高校生の段階から大学数学を始め、部活動で研究活動をしていたというエピソードを話した手前、「いやいや頭良いでしょ」とか「高校生で大学数学やってるんやから数学できるじゃん」と言ってくださる優しい方もいらっしゃるかもしれません。しかし、当時の僕は「自分が優秀な人間であると周りに見せていかなきゃ」と必死でした(当時はそんなことは考えておらず、誇示した自分を本当の自分だとすら思っていたかも知れません)。大学数学を熱心にやっていた理由もかなりここにあります。「みんなはやってないけど俺はやってる」「みんなとは違うステージにいる」「数学ができる人間だと思ってもらいたい」恥ずかしい話ですが、こういう感情が自分の中にあったことは否定できません。みんなとは違うということをアピールして必死に周りと比べられないようにしていました。比べられると俺の方が勉強できないことが明るみになってしまう…
詳しくは後述しますが、クラスではうっすら嫌われ(ときにはっきりと悪意を向けられた)、部活やTwitterでは優秀な人間に囲まれ、どうしようもない焦りと劣等感と自己嫌悪に苛まれていた当時の僕は自分を誇大表示することで心を守っていたんじゃないかと今では思います。
クラスで浮いてしまう
入学早々、クラスでの居場所がなくなってしまった僕ですが前述したような拗らせが肥大化してからはクラスで浮くようになってしまいます。この頃の僕は授業もろくに聞かず机に大学数学の本を広げては読み、数学イキリみたいなこともやっていたような気がします。しかも、周りを馬鹿にするような態度もうっすら取っていたことでしょう。お恥ずかしい限りですが、こんな奴はクラスで浮いて当然です。斜に構えたぼっちがよくわからんことやってるわけですからね(笑)。おまけに学校の成績は良くない。成績主義みたいな側面があったのでもう格好の餌食です。遂にクラスのお調子者的な人たちから悪意を向けられるようになりました。
高校生時代はあまりにしんどい出来事が多すぎて脳が記憶を消してしまい(隠してしまい?)具体的にどういうことをされたのかあまりよく思い出せないのですが(おそらく解離性健忘みたいな感じなんだと思います)、
・Twitterアカウントを特定され、つぶやいたツイートを馬鹿にされる
・数学を指して「何おかしなことをやってるんだ」と馬鹿にされる
・グループワークでハブられる
・出身中学で馬鹿にされる
などがありました(もっとあったような気がします)。今思うと別にそんなに大したことじゃないと思いますし、当時ある人からもそう言われました。世の中にはもっと酷いイジメを経験している方がたくさんいらっしゃいますし、僕のこの体験が悲惨なものだとは口が裂けても言えません。しかし、当時の僕にとっては結構応えました。なにせ1日の大半を過ごす教室で居場所がなく、その上うっすら嫌われているとなると繊細な人間には辛いものがあります。
明確に嫌われ始めたのが6月あたりだったと思いますが、僕はもうこの段階で学校に行くのがかなり嫌になっていました。
部活やTwitterは優秀な人ばかり
当時僕と仲良くしてくれていた部活の人間やTwitterの人間はみな優秀な人間ばかりでした。
部活の同期や先輩はみな頭が切れ、理解力や処理能力に優れた人間ばかりでした(進学校のそれも理数科の人間が大半だったのでそりゃそうです)。学校の成績も良く、物知り。なんでも飲み込みが早い。コツコツ積み上げるタイプではない人が多かったですが(もちろんみんな努力はしています)、持ち前の地頭で器用に勉強をこなす印象がありました。特に仲良くしていた同期が五人いるのですが、彼らは全員京都大学に進学しました。仲良くしていた先輩も優秀なキャリアを歩み、博士課程に進学する人もいます。もう全然頭の出来が違うなと当時は本当に苦しかった記憶があります。最近になってようやく、僕は僕で秀でてるところがあるなと考えられるようになりましたが、あのときの劣等感をつい最近までかなり引きずっていましたし、今後も向き合っていかなきゃいけないんだろうなと思っています。それくらいには、当時劣等感と嫉妬でぐちゃぐちゃになっていました*。
注*) 知人がこの記事を読むかも知れないので補足しておくと、確かに劣等感はかなり感じていたがそれ以上に尊敬の気持ちが大きかったし、こんな僕を受け入れて仲良くしてくれて本当に感謝してます。みんなに感じていた劣等感や嫉妬はあくまで僕個人の問題であって君たちのせいではないので寛大な心で許してほしい。僕がここまで生き続けてこられた理由のひとつに間違いなく君たちがあります。
TwitterはTwitterで化け物しかいませんでした。灘・開成・筑駒・海陽をはじめ超進学高の生徒ばかり。中には数学オリンピックや物理オリンピックで国際大会に出場する人もいました。運良くそういう人たちと仲良くなったのですが、みんな本当に数学がよく出来る。僕みたいな見せかけの大学数学をしているわけではなく、しっかりと理解をともなって勉強していました。生まれ持った頭脳や環境、歩んできた道のりも別世界です。本来ならばこういう世界と交わることがないか、「すごい世界があるもんだな」と感心するだけで済むのですが、Twitterという場所で変に身近に感じてしまったせいか「数学ができる人間とはこういう人間なんだ。俺もならなきゃ」とか「なんでこういう人たちみたいになれないんだ」と変に嫉妬や劣等感を抱いてしまいました。僕は高校数学すら全て理解していなかったのですから、当然彼彼女らに追いつくことなんて到底無理です。しかし、僕もできる側だと思われたかったし、こういう人たちに仲間だと思って欲しかった、そういう一心で難しい本を買ってきてはそれっぽい単語を並べて、さも分かってますよという雰囲気を一生懸命出していました。いま振り返るととてつもなく愚かですね(笑)。このハッタリが結構上手く行き(行ってしまい)、いろんな人と仲良くなることができました。日本で一番数学や物理ができる人間たちと交流を持てたという意味ではかなり貴重な経験といえます。
いろいろと書いてきましたが、結局のところ
優秀な人間に囲まれる
↓
自分も出来る人間であるように見せかける
↓
見せかけの自分と本当の自分の乖離が激しくなり苦しむ
という感じで自らコンプレックスと自己嫌悪の渦に飛び込んでいってしまいました。
高校中退
注) ここから不登校であった時期から高校を中退するまでを話そうと思うのですが、当時のことを上手く思い出せなかったり思い出せても苦しかったりで曖昧な記述になるかも知れません。
以上が入学から夏休みまでの出来事です。夏休みまではなんとか学校に通っていましたが、もうすでに日々学校に行くのが辛く、朝起きればどうやって学校を休もうか考えていたし、寝る前は「この夜が永遠に続けばいいのに」とかを本気で考えていました。相変わらずクラスメイトには嫌われ、自己嫌悪の渦に飲み込まれ、どんどん心が腐っていく感覚がありました。
夏休みに入って多少心の負荷は減ったもののあまり状況は改善せず、思考は負のスパイラルにハマり続けました。
夏休み明けからほぼ不登校になってしまうのですが、明確なきっかけと言いますか、それまで頑張って堰き止めていた心のダムが決壊するきっかけになったイベントが夏休みに起きます。
8月の中旬にとある数学系のイベントに参加しました。毎年夏に全国から理数に高い関心と熱意を持つ優秀な高校生を集めて一週間ほど合宿を行い、第一線の数学者のお話を聞いたり自由にディスカッションを楽しむというイベントです。とある著名な数学者が作ったイベントで、Twitterにいる優秀な高校生の間では名の知れたイベントでした。選考方法は自己PRと小論文なのですが、僕は本当に運良くその選考をパスし参加できることとなりました。合格通知が来たときは夢のようで、全く信じられなかったのを覚えています。Twitterで仲良くしていた人の中にも参加する人が多く本当に嬉しかったです。
参加する前、僕は「これですごい人たちと同じ舞台に来れた」「認められた」と意気揚々でした。実際にはなんの実力をついておらず、ただ作文が少し上手かったのと運が良かっただけで滑り込んだのですが、「これが俺の実力なんだ」と甚だしい勘違いをしていました。しかし、いざ参加してみるとそのハッタリ自己肯定感は見事に砕け散ります。圧倒的に優秀な参加者たち*。経歴や結果はさることながら、数学への理解の深さ、知識量、勉強している内容、なにもかものレベルが違いました。日本のトップ層は本当にすごくて、今でもどうやれば高校生であんなレベルに達することができるのか謎です。
そんな人たちの前では僕は本当に無力で、自分を取り繕うのに必死でした。良い人たちばかりだったので合宿自体は楽しく、今でも良い思い出ですが、自己肯定感は地の底まで落ち、自分の存在意義が本当に分からなくなってしまいました。なにもかもボロボロに崩れ落ちてしまった、そういう感覚です。
注*) ちなみに当時の参加者で仲良くしてくれた人たちのほとんどは東京大学に進学し、研究の道に進んでいます。イベントが終わっても本当によくしていただき、大変お世話になりました。今ではもう連絡を取っていませんが元気であれば嬉しい。
そんな感じで僕は僕であることの最後の砦も失ってしまい完全に心が腐ってしまいました。夏休み明けというのもキリが良く、突然、学校に死んでもいきたくないという状態が訪れます。正確には覚えていませんが、夏休み明けから何かにかこつけて学校を休むようになり、頻度はどんどん増していきました。
不登校
夏休み明けから本格的に不登校になり、家に引き篭もる生活を送ります。一日の大半をベッドの上で過ごし、生活リズムは昼夜逆転。最初は寛容だった親も次第に焦り始め、叱られることが増えてきます。唯一行きたかった部活動にも当然いけない日が多く部員にもたくさん迷惑をかけました。
このころは本当に辛かったです。鬱と診断されたわけではないですがそれに近いような状態だったと思います。夜中、ベットで過ごしていると自然と涙が溢れてきて止まらなくなる。希死念慮が頭から離れない。なぜ生まれてきてしまったのか、なぜ生きているのか。そういったことを延々と考え続けては死にたくて泣き続ける毎日だったような気がします。
親には僕がこうなった原因を何も話していなかったので、意味がわからず学校を休み続ける僕に次第に苛立ち強い言葉も目立つようになりました。親にかけられた言葉で今でも意識的に思い出さないようにしている言葉がたくさんあります。
注) 当時は僕が悪いというのも分かりつつ、そんな親を憎みさえしていました。でも振り返って思うのは、親自身ひどく悩んでいたであろうに、あんなに腐っていた僕を最後まで見放さず辛抱強く待っていてくれて本当に感謝しています。親にはあまりにお世話になりすぎている。しっかり親孝行していかないといけません。人は本当にいつ死ぬか分からないですから。
他にもいろいろエピソードがあったんですが、前述した通り解離性健忘のような状態であまり思い出せませんし、思い出そうとすると動悸がします(笑)。明確に覚えているのは、頑張って朝起きて学校に行く準備をし、校門の前までは行くのですが、あと100mというところで体が学校に向かって歩くことを完全に拒否し(冗談では無く本当に体が固まってしまいます)、学校に行かず彷徨い歩くことを2回やりました。学校から僕が登校していない旨の連絡が親に入り、親が一日中僕を探しまわったらしいです。一回目は大心配されましたが、二回目は流石に怒鳴られました。本当に親には迷惑をかけてばかりです。お父さんお母さん、本当にごめんなさい。
そんな感じで一年生の残りの時間が過ぎていきます。授業にも部活にもほとんど行かず、家でもずっと寝てばっかで何をやっていたか分かりません(笑)授業にあまりにも行かないので進級に必要な出席日数が足りず、家庭科の出席日数不足で留年*が確定してしまいました。
注*) ちなみに僕は留年・退学・浪人の三冠を達成しました。休学をしていれば四冠だったのですが…
一年生が終わるタイミングで退学することもできたのですが、先生や親の説得があったり、退学するリスク(つまり中卒になるリスク)を考えると僕自身もう一度一年生からやり直した方がいいのかもしれないと思い留年することにしました。
留年、そして失敗
なんやかんやで留年することが決定したのですが、当然上手く行くことなんて無く… 精神状態は相変わらず荒んでおり、歳が一つ上の心が腐っている人間にクラスで友達が出来るわけなかったので、何一つ問題は解決されませんでした。自然と学校には行かなくなり、おそらくクラスには数日しか登校しなかったと思います。
そんな僕を見かねた担任や部活の顧問が部活動をするためだけに登校することを許可してくれ、なんとか毎日部活動だけは通うようになりました。みんながホームルームをしている隙に学校に忍び込み部室まで一直線に駆け込む…そんな日々を送るようになります。部活動だけは本当に楽しく、徐々に精神が回復していたのも、ひとえに部活動があったからだと思っています。みんなと研究したり遊んだりするなかで少しづつですが毒抜きをしていきました。部室は僕の唯一の居場所といっても過言ではなかったので、このようなスタイルを許してくれた学校には感謝しています。
高卒認定に合格
この時点で二回目の一年生終了時に退学することはほぼ確定しており、この先どうするかを真剣に考えないといけません。大学で数学を勉強したい思いはあったものの、高校を卒業していないと通常大学には入学できません。しかし、部活動の顧問が「なら高卒認定を取ればいいじゃない」とアドバイスしてくれます。高卒認定というのは高等学校卒業程度認定試験の略称で、この試験(8科目ある)に合格すると大学入試を受ける権利が得られます(残念ながら高卒になることは出来ません)。いつ頃受験したかも覚えていないですし、このために勉強した記憶もあまりないのですが高校受験で培った知識と普段本を読んで得た知識でなんとか誤魔化し、無事一発で合格することができました。
注) この頃には精神状態がすこしマシになっており、頻繁に病んでいましたが、なんとか細々と活動できるようになっていました。
これでとりあえず大学入試を受ける権利を獲得し、高校は中退してしまうことになるがなんとか大学には行こうと思えるようになります。そしてなんやかんやありながらも部活動と数学だけはそれなりに精を出し、晴れて(?)同期が高校二年生を修了するタイミングで加古川東高校を退学しました。
大学入試
高校三年生にあたる一年間
高校二年生にあたる歳で高校を中退したわけですが、ここからは大学入試に向けて受験勉強をしていかなくてはなりません。入試を受けるからには志望校を設定しなければなりませが、当時の僕は部活同期と同じく京都大学を第一志望に掲げます。当時の僕も気づいていましたが、これははっきりと無理です。そもそも二年間まともに高校の勉強をしていないので実力は皆無、しかも安定して勉強していけるような精神状態では到底ありません。しかし、やはり肥大化したコンプレックスによって優秀な同期やTwitterの人間と同じ場所に行きたい、行けるはずだと傲慢にも思っていました。読んでいてお気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが、毎晩自然と涙が出てきてしまうような精神状態にあっても「やればできるんだ」みたいな謎の自信みたいなものは意識か無意識か持っていたように思います。前向きになれるタイミングが存在していることは、肯定的に捉えればまだまだ自分に救いようがあるかも知れないということですが、逆に言えばこの当時、真に心を病んではいなかったのかも知れない、自分で自分の辛さに酔っていただけなのかも知れないと思ったりします。
何はともあれ京都大学に合格するぞと勉強をし始めるわけですが、独学でやるにはどうしても限界があるので神戸にあるとある予備校に入ります。この予備校は中学や高校で不登校になってしまったり中退してしまったりした人間を対象に勉強面のみならず精神面もサポートしてくれるような予備校でした。親が見つけてきたのか自分で見つけたのかは忘れましたが、普通の予備校よりも割高な金額を親に払ってもらい予備校生活がスタートします。
予備校でも不登校に
予備校の授業は基本的に一日三コマから四コマくらいあって、授業面のスケジュール的には普通の予備校と変わりません。大きく違うのは週に一回担任によるカウンセリングが存在することと、精神状態によって授業のコマ数を柔軟に変化させられる点です。ここに通う生徒は精神的に問題を抱えていることが多く、それに対応できるような体制となっていました。通い始めた当初の僕はなにせ「京大にいくぞ、そのために勉強しなきゃ」とばかり思っていたので、初めから毎日しっかり講義を受けるスタイルで通学します。最初の方は勢いでなんとか学校に通って勉強していた気がしますが、高校を不登校になった人間がいきなり学校に通って勉強できるようになるわけがなく、程なくして授業に出なくなります。担任によるカウンセリングもあまり意味をなさず、ただただ学校に行きたくない気持ちが増大し、行かないことによってまた増大し…のループに入ってしまいました。
正直、この一年間のことは本当に記憶にありません。自分で自分を責め、親に叱られ、精神の調子がどん底にまで落ちていました。当然そんな状況で勉強なんて出来るはずがなく、京都大学志望なんて口が裂けても言えない悲惨な有様です。
弟も不登校に
僕には三歳下の弟がおり、当時彼は中学三年生でした。そんな弟が中学校に通えなくなってしまいます。当然兄が高校を不登校になり中退したことも大きな要因としてあるでしょう。小さい頃から仲が良く、遊ぶ時もずっと一緒で、僕は学校の友達と遊ぶことより弟と遊ぶことの方が数倍楽しかった記憶があります。弟も僕のことを慕ってくれていました。そんな彼であったからこそ兄が不登校になり中退したことに対してなにかしら思うことがあったと思います。
当時彼も彼で問題を抱えていて、ひとつ聞いた話としてあるのは、僕が進学校に入学してしまったことによるプレッシャーです。弟は中学時代から僕以上に勉強が出来、塾の先生からも家族からも僕と同じ高校に入学することを期待されていました。弟はそういう他者からのプレッシャーに結構弱く、塾にも苦しんで行っているような雰囲気がありました。そんな中、一緒に暮らす祖母から「兄と同じ高校に行きなさいね」(これは母親から聞いた話なので詳細な発言内容はわかりません)と言われたことがきっかけで心のダムが決壊してしまい、一気に塞ぎ込むようになってしまいました。
当時を思い出すと今でも本当に辛い。今でこそ弟もある程度元気になりましが、毎朝学校に行きたくないとベットに横たわる弟と泣き叫びながら無理やり学校に行かそうとする母親。僕はそれをどうすることもできず(ときに仲裁に入りましたが)、どうしてこうなってしまったのか、なんでみんなこんなに苦しまなきゃならないのか、そんなことをぐるぐる考えながら泣いていました。朝が来ることに怯え、迎えた朝は地獄。
弟には本当に申し訳ないことをしたと思っています。もちろん、僕が不登校にならず中退していなかったとしても避けられなかったのかも知れません。しかし、やはり僕がその原因のひとつを作ってしまったことには変わりありません。悔やんでも悔やみきれません。両親に対しても同じ気持ちです。僕がすべてのきっかけを作ってしまい、みんなが不幸になりました。
注) 一応補足していきますが、今は(今も)家族みんな仲良しです。
Twitterでの居場所も失う
相変わらずTwitterでは仲良くなった人や数学で繋がった人と交流を持っていました。イベントによって完全に自己肯定感はへし折られていたものの、数学自体は楽しかったので、色々な高校生や大学生と数学の話をしていたと思います。しかし、不登校になり鬱のような状態になってからは少し話が変わってきます。当時の僕は自分のこの辛い思いを吐き出せる場所がTwitterしかなかったので、毎日毎日いわゆる病みツイートを大量生産にするようになりました。Twitterにつぶやいても何も解決しないし、むしろ悪影響とすらなりますが、そこにしかぶつけることができずひたすら「死にたい」みたいなことを呟きました(思い出すと恥ずかしいですね)。
すると次第に周囲の様子が変わってきます。彼らも多感な高校生ですから、そういった僕の病みツイートに嫌気がさして仲間はずれにされたり影で悪口を言われるようになります。僕に数学の実力がないことはうっすら勘付かれていたのでそれを揶揄されたり、病んでいる僕を嘲笑ったり、そんな感じです。しまいには参加した数学系イベントを挙げて「あんな人間でも参加できるのか」という内容の発言までされました(しかもそれを超超優秀な高校生に)。現実でもうまく行かず、インターネットでもいじめられ、もうほんとにどうすれば良いか分からず何もかもが嫌になってしまいました。結局、Twitterのアカウントは消去し、本当に仲良かった数人だけと繋がる鍵垢に篭るようになります。
注) 高校のクラスとは違い、Twitterでは明確に悪意を向けられ、明確にいじめられました。今でも許してません。
センター試験に大敗、ニ次試験は受験せず
そんな感じでもうめちゃくちゃな一年間を過ごしました。正直、全く勉強していません(笑)。予備校費用をドブに捨てたようなものです。入試に関しては、センター試験は受験しましたが大敗(400点あるかないかくらいだと思います)、ニ次試験は受験すらしませんでした。親もたぶん諦めていたと思いますし、僕自身ももう浪人するしかないなと思っていました。
浪人することに
大学入試に見事に大敗したわけですが、それでももう一年受験生として頑張ることにします。部活の同期にも浪人する人が多かったので同じように頑張ってみようと思いました。
この年は予備校には通わず、友達と自習スペースに集まって一緒に勉強していくスタイルで勝負することにしました。もう一度予備校に入っても途中で行かなくなるだけだと思っていましたし、友達と一緒に勉強した方がモチベーションも維持できて良いだろうと思ったからです(今思うとこれは最善策を取れた気がします)。予備校に行く友達もいたのですが、宅浪する人間もいたので一緒に加古川の自習スペースで勉強を始めます。
4月と5月はいままでと打って変わり、怒涛の勢いで勉強します。理系科目を中心に数学はLegend(青チャートみたいなもの)、物理はエッセンス、化学は鎌田先生の有名な本(理論化学と有機化学)を平均して一日12時間はやっていたと思います(英語はなにを使っていたか忘れました。すみません)。しっかりと基本的な例題を解いていき、受験の基礎的な部分を習得できるように必死に問題を解いていきました。Legendは基本例題が1000題くらいありましたが二ヶ月でそれを一通り解き終わり、他の参考書に関しても一周はして、精度は高く無いものの基本的な部分は大体抑えることができたと思います。あの頃は何かに取り憑かれたように勉強していた記憶があります。
この調子でやれば京都大学も夢じゃ無いな…と思っていたのですが、現実はそう上手くいきませんでした。6月に入ったあたりからまた精神の調子が悪くなってきます。この頃の僕は精神の調子に波があり、数ヶ月を周期に好調と大不調を行ったり来たりするようになっていました。友達と行っていた自習の会も次第に行かないようになり、数学を除いてほとんど勉強をしなくなってしまいます。二ヶ月頑張りすぎてガス欠してしまった側面もありますね。夏休みくらいまでずっとこの調子が続き、せっかく立てた計画もおじゃんになってしまいました。
夏休みになると駿台の京大実戦という模試があります。京大受験生を対象に本番の入試問題に近い問題で他の受験生と競い、今の自分の立ち位置を知るというものです。友達も受けにいきますし、僕も一応京大志望(笑)なのでみんなと一緒に受けることにしました。結果は当然ボロボロだったのですが、数学と英語は意外と解けており、これを伸ばして理科さえなんとかすればワンチャンあるんじゃ無いかと感じました。これをきっかけに勉強へのモチベーションが復活します。
そこから、少し標準的な難易度の問題集を解き始めるようになり、数学は新スタンダード演習、物理は名門の森、化学はスタンダード問題230選、英語は英文法の透視図などに取り組むようになります。今考えると少し難しい参考書に手を出しすぎた感じがありますが(特に英文法の透視図)、分からないなりに色々考えたり調べたりしながら解き進めていきました。
注) ちなみにこの時期の勉強は結構楽しかったのですが、数学以外はほとんど力になりませんでした(笑)。焦らず、もっと基本的な問題演習をしていくべきだったと思います。
10月あたりまでは精神的に苦しくなりつつも、友達のおかげもありちょっとづつ勉強をしていくことができました。模試を全く受けなかったので、当時の学力を示すものが何も無いのですがハリボテで身につけた知識でなんとか基本的な受験問題にはくらいつけていたと思います。
そんな中、またもや精神的大不調が訪れ(何回目やねん)11月と12月は全く勉強をしませんでした。この頃はなんか絵を熱心に描いていた記憶があります(笑)。共通テストがだんだん迫っており、やらなきゃいけない科目もたくさんあるのに何もできず、焦りだけが募っていく毎日でした。
大学入試
共通テスト
共通テスト本番を迎えました。前述した通り11月と12月は精神が死んでいたので当然共通テストの対策はしていません。地理に至ってはノー勉で挑みました(笑)。当日は本当に絶望的な気分で試験場に向かった記憶があります。正確な結果は残っていないのですが、たしか合計で600点弱くらいしか点数を取ることが出来ませんでした。当然この点数では京都大学はおろか有名な国立大学にすら合格することが出来ないでしょう。またしても失敗してしまった。これからどうすれば良いんだろうかと頭を悩ませます。
友人のおかげで奇跡の復活
共通テスト後、どこの大学にも行けない…と絶望して落ち込み、血迷っていっそアニメーションの専門学校に行ってアニメーターになろうかなと考えていた僕に転機が訪れます(当時、絵を描くことにハマっておりかなり練習していました)。
いつも通り加古川に集まってある友人と共通テストの結果について話していました。友人に「600点しか取れへんかって今年の受験もあかんかも」と打ち明けると友人が「いや、絶対それでも合格できる数学科あるって」と僕のためにいろいろと調べてくれたのです。友人と共にいろんな国立大学を調べると、埼玉大学と富山大学は共通テストと二次試験の配分が50%ずつで、二次試験の科目が数学のみであることを発見します。この配分であれば二次試験の数学で十分逆転できるかもと希望が見えてきます。
今振り返って思うことですが、最後まで他の選択肢がないのか粘り強く調べ検討することは本当に大切です。僕が大学に行きたいと思ったきっかけは「数学がしたい!」というものでした。それを「偏差値の高い大学に行きたい」「そういう大学に行くことが素晴らしいことだ」みたいな考えに歪められすぎると、そもそもの目的を見失うことになります。偏差値や見栄、劣等感や嫉妬をモチベーションや目的として頑張るのも良い一面があると思いますが、共通テストの点数が取れなかった今、入れる大学にはどうしても限界があります。そこですべてを諦めてしまうのではなく、自分はどういう目的で大学に入りたかったのかもう一度見つめ直して、それが実現できるような選択肢をある部分では妥協しながら探していくことが大切だと思います。僕は今回、非常に幸運なことに友人によってそれを達成できました。自分ひとりだとどうしても「これしかない」と思ってしまいがちですが、頼れる人間がいるのであれば相談に乗ってもらい、冷静なアドバイスをもらうべきだと思います。
結局、二次試験の難易度と合格ボーダー、リスクなどを考慮し富山大学理学部数学科を受験することにしました。
二次試験
二次試験までどういう勉強をしていたかというと、ひたすらCampassという数学問題集と過去問(東進のデータベースを利用)をひたすら解いていました。富山大学の二次試験は微積分の出題傾向が高く、微積分に関してはより丁寧に身につけていきました。過去問の方は16年分くらい解きましたが9割くらい合格できていたのでかなり手応えがありました。
二次試験前日、兵庫県からはるばる富山までやってきました。この日は試験会場の下見を終えた後、ひたすら宿にこもってCampassと過去問の復習を間違えた問題を中心に行いました。
試験当日、もちろん緊張してはいましたがそれ以上に自分の力を試せることが楽しみで、適度にリラックスした状態で試験に臨めました。試験中も変に焦らず落ち着いた気持ちで解き進めることが出来、かなり手応えをもって試験を終えることが出来ました(実際8割くらいありました)。試験会場を出た瞬間のスッキリした気持ちと解放された安堵感は一生忘れないと思います。それくらい色々あったこれまでが一瞬報われたような気持ちになりました。
合格
合格発表の日、発表時間が近づくにつれ居ても立っても居られなくなり、実家を出て外で結果を見ることにします。結果は合格。正直嬉しさよりも安堵の方が強く、一気に全身の力が抜けていきました。まず、家族に報告をし、それから親しい友人に報告をしました。友人は僕以上に僕の合格を喜んでくれて、つくづく友達に恵まれたなあとしみじみした記憶があります。たしかに僕の努力と実力があって合格することが出来ましたが、それもこれも家族をはじめ周りの人の存在やサポート、運があってこそ実ったものだと思います。これまでの人生を振り返っても、あらゆるタイミングで素晴らしい人たちに出会い、僕に良い影響を与えてくれました。僕は本当に恵まれている人間であること、そしてそう素直に思えることになによりも感謝したいと思います。
まとめ
最後までNoteを読んでいただきありがとうございます。最初に書いた通り、当初は高校中退から国立大に合格した経験談の中から僕が学び得たことや似た境遇の方が参考に出来るような内容にしようと思っていました。しかし、書き進めていくにつれて僕の中で整理しておきたいこと、文章にしておきたいことがたくさん出てきてしまい、結果ただの個人的な振り返りとなってしまいました。
正直、まだこの時期に決着を付けれているかと言われればそうではありません。心が病んでしまったことによって癖づいてしまった良くないモノの考え方がまだ根深く残っているような気がします。もちろん、克服しつつあるものの大学四年間、その考え方にかなり苦しめられました。みなさんそれぞれご経験があるかと思いますが、知らず知らずのうちに染み付いてしまった思考の癖はなかなか矯正できるものではありません。ずっとずっと向き合っていかなければならないものでしょう。
しかし、今ははっきりと言えますが、僕はこの体験から多くのことを学びました。あまり無責任なことは言えませんが、起きた出来事は悲惨であってもその出来事の自分の中での位置付けや解釈はどのようにでもなります。答えが明確に存在する数学の問題であっても、見る角度によって色々な面白い世界が広がっていきます。もちろん世の中にはもっともっと酷い現実の中に生きている方もいらっしゃいます。僕がこのようなことを言えるのは大変幸運なことだと思います。でも、それでも声を大にして言いたい。
仮に真実がひとつであったとしても、その解釈は無限大です。
自分が前に進んでいけるように物事を捉え直してみるというのもすごく大切なことだと思います。
このNoteが今、辛く苦しい現実の中で必死に生きようとしている人たちの、ほんのちょっとの希望になれればこの上なく幸せです。
おわり