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障害当事者の表現活動②◆パクられた!①

 前回の記事に引き続き、障害当事者の表現活動について考察する。
 創作活動におけるトラブルの筆頭は、なんといっても盗作被害に遭うことだろう。実際にパクられるにしてもいろいろなシチュエーションがあるだろうが、例えば私の体験の実話から言うと、そもそもパクられた状況からして、からきし判らないという問題がある。

 1980年代後半に(前回の記事で触れた通り)、私がある大学生の卒業制作のビデオのBGMとして作ったオリジナル曲があるのだが、それがある日いきなり、付けっぱなしにされているテレビから突然、聴こえてきたということがあった。
 でもそれは、そのビデオそのものではなく、自分の曲が微妙に改変されたものだった。オリジナルが例えばABACADという構成なら、改変されたほうはパーツのメロは全く同じでもADBCAという構成だったりする。私としては、ちゃんと考えて作った曲の構成が、何者かによって勝手に台無しにされてしまったことのほうが何よりも腹立たしかった。

 で、テレビから流れてきた‘私の曲’だが、自分でテレビを付けているわけではないから、何chでなのかもウロでよくわからない※。
 どの番組でなのか、どの番宣※でなのか、あるいはどのCM※でパクられたのかもわからない。
 そもそも誰が盗作したのかもわからない。
 盗作をたまたま、それと知らずにテレビが取り上げたのか、あるいは知らないで番組に使用したのかのかもわからない。
 どの放送事業者※が盗作したのか、あるいはそこに出入りしている業者がしたのか、あるいは個人が盗作したのかもわからない(※放送事業者を特定しないよう、一部フェイクを入れてあります)。
 そもそもパクったほうの楽曲が何というタイトルなのかすらも、からきしぜんぜんわからない。
 要するに相手側がステルスなので、情報の得ようがないし、したがって抗議や異議申し立てのしようがない。

 私は自分から積極的にテレビを見ないから、もしこのとき家族の者がテレビを付けっぱなしにしていなかったら、恐らく自分の作品がいつのまにか盗作されたことにすら気が付かなかったと思う。
 それで、何回か‘私の作品’がテレビから聴こえてきたことはあったのだが、その瞬間を捕捉するために、全てのchを四六時中毎日ずっとモニターし続けることは不可能だった。つまり、証拠を揃えるという時点で躓いてしまう。そういう事態に直面した私は、だれにも相談できないまま、どうしたらよいのかもわからず、ただ頭の中がフリーズするだけだった。
 ただ一つ言えることは、創作活動をするということは、どうやら職業的自立には結びつかないらしい、ということだった。なぜなら、一生懸命頑張って作った作品が、認められることがないその一方で、ただ盗作されるだけというのであれば、少なくともそれによって経済活動に結びつくことはないからである。

 だがその一方で、その良し悪しは別にしても、パクったほうはカネになる(だからといってパクっていいという話ではないのだが)。要は創作活動をすることは、その労力や投資に対して、そのリスクが大きすぎる。前回の記事で述べた人間関係のリスクに、今回述べる、盗作されるリスクである。少なくとも、自立には殆ど結びつかないのは明らかである。そのような状況で、作品作りでいくら努力しても、また、いくら頑張っても、「天才ですね」と言われて、それでオワリである。
 加えていうなら、放送事業者が障害者の理解を謳う番組を制作するその一方で、障害者の作品を勝手に無断でパクって放送に利用するのは矛盾であり、また偽善でもあるだろう。とくに、「不登校の障害者が知人の大学生の卒業作品のためにBGMを作った」というネタだけでも、立派に番組に仕立てることができるかもしれないのに、実際にはそのための取材をすることすらせず、ただそのようにして作られた音楽をパクることしかしない。私は、こういう人たち・団体・組織に公共の電波が押さえられているのかと思うと、素直に憤りを感じざるを得ない。

 一般的に障害者は健常者と比べて、《できること》が限られている。なので、その数少ない成果をかっさらっていく行為は是非とも慎んでいただきたい。もっとも、パクった側としては、必ずしも最初から障害者による作品ということが判っていてパクった訳ではなく、パクってみたら、たまたまそれが障害者による作品だったというのが実情だろう。だがいずれにせよ確実に言えることは、このように不正や不公正が公然とまかり通り、社会的弱者を搾取し、人材を育むことを怠り、才能を食い潰していく日本は、衰退まっしぐらであろうということだ(もうとっくに落日だという見方もあるけど)。
 とりわけ創作の世界では、どんなに自分独自のオリジナルを生み出してみても、「これが自分のオリジナルだ」という証明・立証が非常に難しいのである(とてつもなく難しいと言っているのであり、不可能というわけではないが)。一言で言えば、パクられたら終わり、なのである。
 だから、仮にオリジナリティがあるとか、創造性が並外れてあったとしても、それで身を立てられるとは思わないほうが良い。なぜなら世の中は不正と悪で満ちていて、あなたから盗もうとしている人たちは、(それらがステルスなのでその存在に気付かないだけで)たくさんいるからである。
 そういうわけで、どんなに努力しても、強力な利権に守られた不義や不正、また日本人に対する逆差別で固められている現状の前には、個人の力ではとうてい太刀打ちできない。したがって、残念ながら世の中には無駄な努力というのがあって、それを避けるためにも、現実的な視点を持ち、ときには好きな事を諦める・見限る勇気を持つ必要があるだろう。
(もっとも私の場合は、持って生まれた障害のために、普通に高校や大学を出て、普通に就職して社会人になるというのが、そもそも非常に困難で、現実的ではなかったというジレンマ&パラドックスはあるのだが。)

 物事がうまく運ばないというのは、本人に何等かの問題があるという以外にも、そのような訳で、周辺環境が整っていないというのがある。少なくとも、このように無名の個人の作品が盗作されて勝手に商業利用されたり、(これは複数のソースから聞いた話だが)動画投稿サイトなどで公開していたオリジナル作品が、ある日突然‘著作権侵害’の濡れ衣を着せられて問答無用で削除されたうえ、本人のアカウントが剥奪されたり、あるいは(1980年代後半のある音楽雑誌に実際に書かれていたように)アマチュアの投稿作品を、「こんな感じ」と鳴らして、CMに使用する音楽の“参考作品”にするなどといった状況が、組織的・構造的・慣習的・恒常的に続いているような状況が、良好な周辺環境とは言えないだろう。
 そのようななかで障害当事者本人の作品がパクられる事態になったとき、本人がきちんと出るところに出るということが、とりわけ障害があると非常に難しいのである(これは健常者であっても困難なことだと思う)。まして相手は法務部もあるような大組織や有力組織である。
 であるから、自分の仕事で得た利益よりも、自分の仕事によって巻き込まれた紛争に対処するために、時間や労力や手間や資力が奪われてしまうし、さもなくば、どうすることもできないまま、泣き寝入りになってしまう。
 なので、今書いてきたことから愚直に考えるなら、非常に残念なことなのだが、最初から何もしないほうがいいということにならざるをえないだろう。もちろん、それで良いはずはないのだが……。

 それで、障害当事者の表現活動・創作活動に、もしサポートが必要なのだとすれば、それは‘障害を売り物とする宣伝活動’(その是非は別にして)などというよりも、むしろ、エージェントとして通常の業務(創作活動)におけるクライアントや関係者などとの折衝を支援して欲しいということである。
 そのなかには(前回の記事で書いたように、作品作りに伴う人間関係やコミュニケーションを助けて欲しいということに加えて)、障害を持つ本人の創作活動や表現活動などによって、本人が何らかのトラブルや紛争に巻き込まれたときの、および、あらかじめ本人がそういったトラブルに巻き込まれないための、法的なサポートも含まれる。
 これには、障害者本人の作品がパクられないように守ることはもちろん、逆に本人が知らずに何か他の作品と似たものを作ってしまったときに、そのこと(カブリの有無)をきちんと本人に知らせてあげること(これはAIを用いれば可能だと思う)、および、本人が権利侵害することを未然に防ぐ仕組みが必要だろう。

 一部の非常に恵まれた障害当事者たちは、サポーターを得ることで芸術活動を行い、マスコミによっても好意的に広報され、それゆえ知名度もある。しかし、その一方には、かつての私のように、障害を売り物とせず、一切のサポーターなしに独力で奮闘して、なんとか《好きなこと》・《得意なこと》を仕事に結び付けようと頑張っていた障害当事者がいることも忘れないでほしい。◆

(この記事はNPO法人アスペ・エルデの会発行『アスぺ・ハート』第46号(2017年9月発行)・第47号(2018年3月発行)に掲載の拙稿を編集・加筆しました。)

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