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支援者の偽善。

 今日でこそ、不登校支援の人たちが大人のひきこもり支援を手掛けることはごく普通になった。
 でも、今から30年前は、不登校支援の人たちが、今でいう大人のひきこもりの当事者を排除していた。
――と言っても、今の時代なら信じてもらえないというか、人によっては「えっ?」という感じだろう。

 実際、当時は、大人のひきこもりがその主張をすることは、当時の現役の不登校の子どもたちの権利を侵害するものとして糾弾された。
 今でいうところの「コンフリクト」だ。

 まあ、当時の不登校支援者たちは、不登校の子どもたちを支援するので手一杯で、とても大人のひきこもりにまで目を向けるゆとりも能力もなかったことはあると思う。
 でも、だからといって、(かつて不登校だった)大人のひきこもり当事者の投稿や相談の手紙を、無断で公に俎板に乗せて批判や批評したり、あるいは馬鹿にすることが許されてよいはずがない。

(道なき道を通ってきた先行事例は試行錯誤と失敗の連続で、身をもってさまざまなリスクを冒してきたのだから、後からやってきた彼らがいろいろ批評したくなるのは四方山でしょう)

 こちらとしても、相談の最初の段階で、簡単な自己紹介をしているから、早い段階で受け入れられるか、そうでないかの目途はつけられると思う。
 受け入れるフリをして、しばらく経って、ある程度情報を吸い上げたら、
「あなたのことはよくわかったので、よそへ行ってください」
では、こちらが途方に暮れるというか、困るのである。

 相談しているこちら側としても、有り余る体力と気力と時間で相談しているわけではないのである。

 そのような訳で、かつて大人のひきこもりを追い出した不登校支援の人たち、また、その流れを汲む人たち、あるいは彼らの息のかかった人たちが、今になって大人の引きこもりを受け入れているというのは、かつて彼らから追い出しを食らった立場から見ると、理解に困るというか、とても奇妙に映る。

 まあ30年も経つから彼らも変遷したのか手の平を返したのか世代交代したのか、あるいは彼らの中にも様々な考えの人がいたからなのかは不明であるが、もし彼らが大人のひきこもりを受け入れるつもりがあるなら、追い出しなんかしないで、最初から素直に受け入れて欲しいと思う。

 今更受け入れるフリをされても(その手の団体の共通項として、なぜか発足当初からマスコミなどのメディアに大きく取り上げられるというのがあるので、人も集まるし、知名度もある)、かつて彼らから冷たくあしらわれた身としては、単なる偽善、ええかっこしい、あるいはパフォーマンスにしか映らないのである。

 高齢ひきこもりの生の声が世の中になかなか伝わっていかないのは、その若い時から今日にいたるまでその声が、不登校やひきこもりの世論のイニシアティブを執るようになった《彼ら》に潰され排除され無視されてきたというのはあると思う。

 よくメディアに出てくるジャーナリストたちも、《彼ら》と結託(?)しているようなところがあり、《彼ら》の声を代弁し、《彼ら》のことを好意的に報道するので、《彼ら》から弾き出された当事者の声は、ますます世論から、そして世の中から遠のいていく。

――というわけで、私みたいな高齢のひきこもりについて、(かつて某有名ジャーナリストが言った)「どうして相談しなかったのか」と言われる筋合いはどこにもないのである。

 そういう発言がジャーナリスト自身の口から発せられるということ自体、そのジャーナリスト自身、私のような昔から発言を続けている元不登校の高齢ひきこもりについて、何も知らないということを白状しているのと同じことだと思う。◆

(2023.7.1)(7.3追記)(7.27追記)

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