障害者にとって不登校支援者が向かない理由。その①
なぜ、学校で頑張って力尽きた自閉症者にとって、不登校支援者はマズイのか?(理由その1)
それは、今まで頑張って努力してきたことを、頭ごなしに決め付けられ、完全否定されてしまうから。
今の時代はまた違うかもだが、かつて昭和の時代に、普通学級・普通科高校に通うしかなかった自閉症者は、学校という場では、何の指導も支援もないまま、常に、自分の力というものが、極限まで試された。
いじめに耐えなければいけないこととか、
そんななか、みんなと仲良くしなければいけないだとか、
友達を作らなければいけないだとか、
一人でいるのは良くないだとか、
協調性を身につけなければいけないだとか。
つまり、自閉症者の、まさに障害されているところが、毎日、徹底的に試されるのが、学校という場だった。
誰も助けてくれないなかで、問題に対して常に自分の頭で考えることが要求されるから、否応なく自主性というのが発達する。
というか、自主性と主体性と積極性と勇気がなければ、学校や集団生活の場ではやっていけない。
少なくとも当時の自閉症者にとっては。
その努力と忍耐と創意工夫を、(一部のラディカルな)不登校支援者たちによって、頭ごなしに完全否定してしまう。
しかも、本人のナマの声が彼らによって俎板に乗せられ、公に晒され批判されてしまうというオマケつき。
わたしとしては、学校を社会参加また訓練の場と捉え、「自分の力で普通学級に」の通りであろうと頑張ったつもりのはずだった。
しかし一方、彼ら不登校支援者の言い分は、「学校に頼らないで自分の力で」というものだ。
元気で健康な健常者なら、あるいはそれでもいいのかもしれない。
しかし、障害を持った人にとって、当時の普通学級・普通科高校の、いったいどこに「頼る」「頼れる」要素があったというのだろうか?
わたしは障害を持った人が「学校に行く権利」のためにずっと闘ってきたつもりだ。しかし一方、彼らは「学校に行かない権利」と主張する。
彼らのように「学校を見限る」人たちもいる一方で、かつてのわたしのように、学校を社会参加の場とみなしてきた人もいる。
なので、「障害者を普通学級に!」と運動している人たちは、かような不登校推進派の考えについて、どのように捉えているか知りたいし、その逆もしかりである。
すくなくともわたしにとっては、社会参加するということは、とても大切なことだった。
そして、たまたまわたしが若い時だった時代には、そのための場が学校だったということ。
だからこそ、わたしは学校にもこだわったし、学校生活にも真摯に取り組んできたつもりだった。
だが、一部(?)のラディカルな不登校推進派のように、人が大切に思い、頑張ってきたことを否定する、批判する、ジャッジする、俎板に乗せるというのは、人として?なのよ、と思う。
せめて、頑張ってきた障害当事者に対して、労いの言葉の一言でもあればよかったと思う。
それってわたしの「期待のし過ぎ」でしょうか?「甘え」でしょうか?
このように、障害を持った人が不登校支援者に相談しようとしても、双方の考え方の違いというか、お互いに嚙み合わないというか、理念と理念のぶつかり合いのため、ハナから相談にならないという現実がある。
要するに彼らは自分たちの理念が大事なのであって、目の前の悩んで困っている人間などどうでもいいものらしい。
だから、普通学級・普通科高校で頑張ってきた障害当事者は、(少なくとも当時にあっては)彼らに相談することによって、却って絶望にさらされる結果となるのである。
さらには、そういう支援者は、学校生活(いじめなど)が原因で精神疾患になってしまった当事者に対し、その負ってしまった障害を理由に差別やヘイトの言葉を向けたりもする。(拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険』p.144)
ともあれ「餅は餅屋で」とも言うので、最初から発達障害の支援者に相談すればよかったのかもしれないが、当時はまだそういうのはなかったので、今はまた違った対応が取られていることを望みたい。
というか、もし今は当時と違った対応がなされている(例えば:彼らが今は発達障害のある人を受け入れている)とすれば、それはそれで彼らの主張はブレまくりというか、手の平を返しているというか、世の中の受けのいいこと(例えば発達障害ブームに便乗するなど)をその時その時に言ってることになると思う。
このように、当時の不登校支援者みたいな塩対応ではなく、いじめやその後遺症で悩んでいる人、社会参加に頑張っている障害当事者に寄り添い理解し助けてくれる支援がどこかにあってもいいと思う。◆
(2024.3.5)
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