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なぜフロイトは「無意識」を見つけたのか 〜精神分析を学んでみて〜
「精神分析」をご存知でしょうか。
クトゥルフの呼び声というゲームを知っていれば、同名のスキルがあることを知っているでしょう。
数年前に宇多田ヒカルさんが精神分析を受けたというニュースを見た人もいるかもしれません。
もう少し詳しければフロイトという人が考えた精神療法だ、ということくらいは知っている人も多いでしょう。
しかし、多くの方はその名前しか知らないし、実態を知る人はさらに限られるでしょう。
自分は精神科医になってから、いやその前から精神分析にずっと興味がありました。
これまでも独学で勉強してきましたが、今年から外部の精神分析セミナーに参加しています。
そこでは最前線で活躍する精神分析家たちが教鞭を振るっている場所です。
精神分析は古い文化でありますが、現代精神医療では無用の長物という趣もあります。
けれど、今なお精神分析という営みは現代に必要ではないかと私は思うわけです。
何よりこの面白い営みを多くの方にも知ってほしいのです。
今日はこの、古いけれどなお輝き続ける「精神分析」について、私なりに語ってみようと思います。
少しでも精神分析を知るきっかけになっていただければ幸いです。
注釈:私は精神分析のスーパービジョンや訓練分析を受けたわけではない、座学のみの人間です。そのため分析家、分析中の方々にとっては違うと思われる表現があるかもしれません。そのような指摘はコメントなどで残していただければ幸いですし、本noteを読む方もこの点をご留意ください。
精神分析の歴史
精神分析がフロイトによって考案された、ということはさすがにご存じの方も多いでしょう。
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フロイトはオーストリアで生まれた神経内科医でした。精神科医ではないんですよね。
精神分析の対象であったヒステリーという病気は、当時は神経内科(脳の病気などを見る内科。精神科とはまた別)の領域でした。
神経内科医になったフロイトは当時の治療法である催眠療法を学び、町医者として働いていました。
しかし、催眠療法では一時的にしか回復せず、どうしたものかと考えていたのでした。
そんな中、ブロイアーが経験したアンナ・Oというヒステリー患者の症例を通し、かの有名な「ヒステリー研究」を発表します。
これらの経験の中からフロイトは除反応(カタルシスともいう)という、「話すことによって症状が消退する」現象を発見します。
この治療法をさらに発展させたものが精神分析であり、この時に基本的なルールである「自由連想」と「禁欲規則」が提唱されました。
こうして精神分析は1900年前後に産声を上げ、様々な批判がありながらもメンバーを増やし、理論を洗練していきました。
その中で愛弟子でもあったユングとの別離など、様々な人間模様がありました。
精神分析の歴史にはドラマに満ちた人間関係があり、これも魅力の一つだと思います。
そんなドラマの中、彼の居たウィーンは分析の文化が花開き、多くの人が訪れるのでした。
精神分析が生まれて数十年経た当時のオーストリアでは、隣国にナチス政権国家が誕生しました。
フロイトはユダヤ人であり、迫害の対象でもありました。そして多くの分析家たちもその迫害に苦しむことになります。
何とか難を逃れた彼は1939年に亡命先であるイギリスにて病没します。
彼は二度と、祖国の地を踏むことなく亡くなったのです。
この悲劇としか言いようがないナチスの迫害ですが、皮肉なことに分析を世界中に広げる役割を果たします。
分析家たちはイギリス、フランス、アメリカ、南米などに避難していき、そこで活動し、分析の文化を広げていきます。
イギリスではフロイトの娘、アンナ・フロイトと新進気鋭のメラニー・クラインによる仁義なき戦いが勃発。このことは後に精神分析を自我心理学派、対象関係論派、中立派に分裂することとなりました。
フランスではジャック・ラカンやフェリックス・ガタリなどのフランス哲学に大きな影響を与えることになります。
勿論アメリカでは戦後、薬物療法が登場するまでは精神医学の中心に君臨していました。
南米は、なぜか今なお精神分析家の多い地域だそうです。
その後、分析という精神療法の誕生は多くの新たな精神療法を生み出すことになります。
現代精神医学でまず学ぶことになる支持的精神療法はこの影響を大きく受けていますし、CBTにも精神分析のエッセンスは取り込まれています。
極論を言えば、現代の精神療法の多く、例えば対人関係療法、森田療法などの中に分析の血脈は受け継がれているのです。
精神分析って何するの?
歴史はこれくらいにして、精神分析は実際には何をしているのでしょうか。
精神分析をするとき、クライアントは部屋のカウチに寝てもらいます。
分析家はその後ろに腰かけ、クライアントに自由に話してもらいます。
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この自由に話すということ、これが「自由連想」という分析の重要なルールです。
分析家が何も話さないかと言うとそういうわけではありません。
クライアントの話したことに多少、何かを言ったりします。
ただ、基本はクライアントがしゃべり、分析家はそれを聞き続けるのです。
ある意味、究極の傾聴の空間でもあります。
精神分析はこの治療をなんと、週に最低4回以上、1回45〜50分でやるのです。
しかも、毎回お金を取ります。日本だと相場、1回1万円前後だそうです。
週に4回でも200分、そして4万を毎週です。
めちゃくちゃにハードルが高いわけなんですよ。
精神分析やってみたいなあ、と思って訓練分析(精神分析を勉強している人が実際に分析を受けること)をやろうとしても、ここで心が折れてしまいます……。
なので自分はいま、とりあえず座学で勉強しているわけです。
余談ですが、クトゥルフ神話TRPGの精神分析の項目を見ると、結構詳しく書いてあります。どれくらいこの項目を読み込んでいる人がいるでしょうか。
実際にこの技能を正確に運用するととても難しいんですよね。
脱線しましたが、精神分析のルール的なものはこれですべてです。
クライアントがきて、話し、お金を払って帰る。これを週4、5回50分する。
結構単純と言えば単純ですが、ここからが難しい話です。
除反応で「話せば症状が改善する」とありましたが、人間はそう簡単には話せませんし、気付けません。
自由に話せと言われても、いつか話せないところが出てきたりします。
あるいは、この特殊な空間の中でクライアントは様々な感情を分析家に向けることになるのです。
(フロイトは)患者にこころに浮かんだことを何であれ言うように求めた。彼の患者は、しばしば、口を閉ざし、自由に連想することができないようであった。(中略)患者が黙り込むのは、分析家について感じていることとしばしば関係があるということを見出した。
注)精神力動的精神療法は分析から派生した精神療法の一つでその色を強く受け継いでいる
ただ話すだけなのに、それが難しい状況が出てくる。
なぜ、クライアントは話せなくなってしまうのか、話せないのか。
それを考えるために、精神分析はクライアントの心理を考え、多くの理論が生まれ、発展していきました。
その一つであり、そしてフロイトの偉大な発見が、「無意識」です。
なぜ無意識の発見がすごいのか
フロイトは分析の中で、クライアントが語ることと思っていることの解離を見つけていきます。
つまり患者の表にある意識とは別の意識、無意識があることに気づきました。
さて、なぜこれが偉大な発見なのかと言うと、当時の世界情勢を考える必要があります。
19世紀から20世紀は啓蒙主義から始まり理性主義、合理主義などの「人間が理性で考えれば何でも解決できる!」という時代でした。
ある意味、人間の万能感が極点まで至っていたともいえます。
そんな中、フロイトは「いや、人間には自分の中に、自分でも考えられない場所があるんだ」と言ったわけです。
人間の理性をもってすれば、人間はなんでもできる、「我思う故に我あり」と考えている最中、「我思えぬ我あり」は大変衝撃的な発見なわけですよ。
「お前は思っているほど、万能じゃないんだぞ」と言って冷や水を浴びせるわけです。
この発見は以後、哲学や心理学をはじめ多くの学問に影響を与えたことも事実です。
そして人類はその主観の中に、自分に及ばないものがあるという発見でもあります。
私たちが自分が一つであると思っているのは大間違いで、一つの錯覚として、一つであるという感覚が生成されているに過ぎないという思想があるわけです。
この無意識というのは前述の通り、我々意識が一つの錯覚でしかない、という気付きであります。
そうすると、今思うことの裏には別の感情、思いや欲望があるのでは、と考えを巡らせることができるのです。
この人がこんなにも怒っているのは、もしかしたら表に出てきていない別の気持ちがあるのかもしれない。
無意識という空白を使い、こころに想像を広げていくことができるのです。
この無意識からの発展の一つが、「転移」です。
転移という現象の発見
人間は知らず知らず、かつての対人行動パターンを繰り返します。
その原盤には過去の大切な人(主に親)に向けていた感情であったりします。
たとえば、分析家をすごく憎んでいる感情はクライアントが母親に向けていた感情かもしれないし、ものすごく好きになった感情は父親に向けていた感情かもしれない。
この繰り返す、あるいはかつて誰かに抱いていた感情が今、この場で再現される現象を転移とフロイトは名付けたのです。
そういうもの(内面にある基本的な対人関係や内面的な人間関係のモデル)が反復され移し出されてくる
この文脈の中で有名な「エディプス・コンプレックス」を見つけたりします。幼児は異性の親を手に入れるために同性の親を敵視する、という現象です。
とにかく、クライアントは以前の感情や対人関係を反復する、このことを扱うことが精神分析ではとても大切なのです。
しかしながら、この転移の大本は幼児期の報われなかった期待であったり、傷つきの経験だったりするので、クライアントには感じ難いものだったりします。
だからこそ、分析家と共にその感情を感じ、考えることが大事なのではないかとも思うのです。
本当の意味で気持ちを込めて考えられる体験をすることが非常に苦痛なので、その代わりにひたすら反復していく。(中略)その繰り返しから自由になって考えることを促そうとすることが精神分析の仕事だといわれていますが、そのように考えた時に、ここで起こっているできごとは転移と呼ばれます。
転移の重要なところはそれだけではなく、転移という現象がクライアントに限らず分析家にも出現する、ということです。
これは分析家からクライアントへ向ける転移、「逆転移」と呼ばれます。
逆転移は「話したくないなあ、気が重いなあ」というような、分析家やセラピストの対クライアント感情を整理するために重要な働きをします。
セラピストの個人的な感情のために治療が中断したりしないためにも、逆転移の整理は必要になります。
そのため逆転移の概念は分析のみならず、現代の多くの精神療法に取り込まれています。
そして、逆転移というものの発見は、分析家とクライアントの関係性に重要な指針を示すものでもあります。
つまり分析家はただ一方的にクライアントを観察しているだけではなく、クライアントとの関係の中に様々な感情が想起される、対等な交流が発生するのです。
ガラス越しにクライアントを見ているのではなく、ともに同じ部屋にいて、影響し合うのです。分析家のサリヴァンが唱えたように「関与しながらの観察」という、巻き込まれながら治療は進展していくのだということを示します。
無意識という自分たちには及ばない領域を前提として、転移という反復する感情を一緒に経験していくこと。
これが精神分析というものの一端なのではないだろうか、と私は思います
なぜ今、精神分析を学ぶのか
私が精神分析を学んでよかったことは、まず臨床的に患者理解が深まることです。
現代精神医学はDSM-5という診断基準にのっとって診断、治療をします。
しかし、それだけでは理解しえない患者さんと出会うことがありますし、DSMだけでは患者さんの苦痛、こころの在り様を理解するには足りません。
患者さんの心の有り様を理解する補助線として、精神分析というツールは非常に有効だと思います。
ただ、これは別に精神分析でなくてもいいのです。
認知行動療法であったり、森田療法であったり、他の枠組みを援用することもありです。
その中であえて精神分析を選ぶかと言えば、それは「二者心理学」的な側面が大きいからでしょう。
転移というフレームワークによって診察室で巻き起こることは、全てを患者側に押し付けることにはならず、治療者側の問題としても理解することができます。
常に自制を働かせ、同時に自身の感じた感情自体を治療の道具にすることができるのが精神分析の強みと言えます。
そして何より、精神分析の考え方、営みが面白いのです。
精神分析は生誕して百年以上、多くの人たちが関わり、喧々諤々と議論を交わしているジャンルです。
確かに現代心理学的な、自然科学的なアプローチは苦手なジャンルであり、多々批判にさらされるところであります。
しかしながら、人の心がn=1である以上、自然科学的なアプローチには限界があります。
それにはそれ相応の、人文知であったり文化人類学であったり、そういったアプローチがあってよいと私は考えるわけです。
精神分析は人の心とはどんなものなのかを必死に定式化しようとして、考え続けてきたジャンルです。
その中には転移という概念があり、これはミーティングや1on1などで有効活用できる側面はあるでしょう。
ですが精神分析にとって重要なのはその考えが有効かどうかではありません。
現代では確かに精神分析の治療的価値はあまり高くはないでしょう。研究でももっと良い治療はたくさんあることが分かっています。
しかし、精神分析にとって大切なのは、「人の心とはどういうものか」を知り続けようとする営みではないか、と思うのです。
何故なら、精神分析で考えている人たちは皆、クライアントと分析を続けている人たち、クライアントの苦悩を共に抱いてきた人たちなのです。
そんな人たちが必死に考え、分析という劇場で踊り、感情の交流を交わしてきた、そのうえで出る言葉たちなのです。
生きた言葉たちだからこそ、こころという捉えどころのないものを捉えようとする営みが、生き生きと感じられるのです。
ここでは書ききれないくらいに複雑なことが分析にはたくさんあります。
それが取っかかりづらくしている部分もします。
逆に分析を単純化して批判しているものもあるのですが、そんな単純なものでもありせん。
そんな精神分析について、最後に藤山先生の言葉を引用して締めようと思います。
(通俗的な精神分析は)単純で、ギューッとリニアな、直線的なものだと誤解されやすい。そうではないんです。無限の運動の中にしか私たちのこころは存在しないと主張していると思ってください。私たちは絶えず主体の場所を空虚にしていったり、またそこが満たされたりして動いているということです。
そういう運動を一番的確にとらえているものの考え方が精神分析だと、私は思っているんです。
まとめ
というわけで精神分析を勉強してきた所感を書いてきました。
もっと細かな概念など、面白い話もたくさんあるのですが、それはまたおいおい。
参考図書は藤山先生の「集中講義・精神分析」。精神分析の外観を知りたい方にはお勧めの一冊です。
以下の有料部分には後書き的に、もう少し精神分析について思うことを書いております。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
あなたの精神分析に対するイメージとか、「このことを教えてほしい!」とかありましたらコメントで教えてください。
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