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Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【B-7】 The First US Visit & Forevermore

(「彼女たちは音楽で語る」 Courtesy of Roy Baugher)

(本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成、画像や情報などを共有させていただいております。)

以下本文、敬称略

■彼女たちは、なぜアメリカに渡ったまま帰らなかったのか?

ビートルズがアメリカを初めて訪れてから4か月ほど後、1964年の初夏、Gay Little Heartsの5人は羽田からアメリカへと向かった。

そしてTokyo Happy Coatsとグループ名を代えて、本場アメリカのショービジネス界にデビューした。

GLHの渡米とラスベガス公演を喜んだNHKオールスターズの指揮者・奥田宗宏は6か月間の公演を終えての帰国凱旋を心待ちにしていたが、その望みは永遠に叶わぬままに終わってしまった。

【B-1】で紹介した奥田の記事に改めて目を通してみると、少なくとも奥田はアメリカ永住の”気配”をGLHから看取できなかったようだ。それとも離日前は彼女らにその意志はなかったのか。

(Courtesy of Roy Baugher)

彼女たちはアメリカに渡った後、どうして帰国ではなく永住を選択したのだろうか。以下はあくまでも”状況証拠”ではあるが、彼女たちの心情を推察してみたい。

■『占領軍調達史』から浮かび上がる裏事情。

占領軍調達史編さん委員会 編『占領軍調達史』[第3] 第1巻 (部門編 芸能・需品・管材編)
,調達庁総務部総務課,1957.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3001683

「【A-5】なぜGLHの日本側露出が少ないのか?」でご紹介した調達庁発行の『占領軍調達史』(1957年)だが、実は【A-5】作成時にあえて引用しなかった部分が多々ある。

『占領軍調達史』:1952年から1957年まで占領軍へ物資などの供給を担当していた調達庁が出版。1955年から59年までに5冊が刊行される。その3冊目「芸能・需品・管材」編に芸能関係の記述が残る。

【調達庁】1952年、駐留軍の物資や労務などを調達するために総理府の外局として設置された機関。1957年、防衛庁建設本部と合併して防衛施設庁となる。(精選版 日本国語大辞典)

◇  ◇  ◇

その箇所は、同書の「第三節 平和条約後における芸能提供」にあって、こう述べられている。

軍に対する芸能提供は平和条約の発効を契機として大量に行われた接収ビルの解除に伴う各クラブの合併廃止やレスト・ホテルの接収解除等により総体的に減少過程をたどつており、特にSSO関係(注:各キャンプの司令部統括の発注窓口)関係の要求が減じているが、一部のクラブや宿舎にあつては占領当時よりもむしろ派手に芸能人の招聘を行つているところもある。しかして、芸能提供が最も盛んに要求されるのは空軍関係であつて、海軍関係がこれにつぎ、陸軍関係は比較的少くなつている。

『占領軍調達史』[第3] 第1巻 102P 太字は引用者

しかしながら平和条約の発効後、前に述べられたように軍に対する芸能提供が総体的に減少するにつれ、彼ら(注:特殊芸能人)の身辺に冷たい風が次第に吹き始めることとなつた。

『占領軍調達史』[第3] 第1巻 104P

 これら特殊芸能人の一部は、最近、駐留軍関係のマーケットの縮小から、不況の波に見舞われ始め、だんだん日本人相手の劇場進出を狙うようになつた。(中略)
 おまけに最近また都心にある米軍関係クラブが今年(注:1954年)いっぱいで接収解除の声もあって、ますますマーケットはせまくなる。昨秋東京ローズ以下十余人がバンコクへ進出した前後に、各種芸能人の海外進出も、だいぶ計画されたが、いずれもかけ声だけに終わってしまった。
 劇場を対象としない芸能人は意味がないし、さりとて彼らが日本人を対象にしたくとも、ネーム・バリューの点で、なかなか劇場が買ってくれない。しかも安くたたかれるといった悲しさなのである。

『占領軍調達史』[第3] 第1巻 『サンデー毎日』からの引用 104P

つまり、米軍基地慰問マーケットの縮小ということ。

1952年4月28日に発効した『日本国との平和条約』、通称『ワシントン平和(講和)条約』によって、連合軍の占領を脱して日本は独立国となった。

そのため敗戦時に米軍に接収されクラブや娯楽施設として使われた建物が順次返還されることになったが、それは言い換えると、米軍慰問サーキットに従事した特殊芸能人たちにとって一つ一つ稼ぎ場所を失っていくことでもあったのだ。

■数字で追う、在日米軍兵力の推移とGLHの動き。

『サンデー毎日』が言う「マーケットの縮小」を、エビデンスとして数字で追ってみるとどうなるか。下記グラフは、1952年から1980年までの在日米軍兵力(兵員数)の推移である。GLHのトピックに沿った流れで兵員数の減少過程を列記してみる。

「在日米軍兵力の推移」防衛省

1952年(S27):260,000人 朝鮮戦争の最中、翌年停戦
1955年(S30):160,000人 →GLH、アクロバットからバンドへ移行
1958年(S33): 66,000人 →GLH、『スヰングジャーナル』記事に登場
1960年(S35): 46,000人 →GLH、空母ミッドウェーで公演
1964年(S39): 40,000人 トンキン湾事件 →GLH、渡米
1972年(S47):  65,000人 沖縄返還、日本復帰

合計数値はグラフから推定

たとえば、GLHがアクロバットチームからこどもジャズバンドへ移行していたと思われる1955年は16万人、『スヰングジャーナル』の記事に露出した1958年は6.6万人、渡米した1964年時点では4万人。1955年と1964年を比較すれば、ほぼ10年で12万人(-75%)の減少だ。これは大きい。

また『占領軍調達史』に「芸能提供が最も盛んに要求されるのは空軍関係」という指摘があったが、アメリカ三軍の中では空軍の兵員数が最も多く海軍のほぼ2倍もある。それだけ空軍からの引き合いは多かったわけで、同軍所属のBickel氏が浅草田島町の事務所を訪ねたのも決して偶然ではなかったと思う。

空・海・陸三軍の兵員数の差が、『占領軍調達史』にある「芸能提供が最も盛んに要求されるのは空軍関係であつて、海軍関係がこれにつぎ、陸軍関係は比較的少くなつている。」という記述とリンクしていることも明かだ。

さらにグラフの1972年を見ると、沖縄が日本復帰した際に在沖縄米軍が”在日米軍”として加算されたことで合計値が急増。中でも外征軍たる海兵隊と空軍の上昇具合に目が行く。それだけ沖縄に、ベトナム戦争の後方基地として戦力が集中していたことの現れだと解釈している。

その沖縄に熱心なファンクラブが生まれて公演の頻度が増えたことは、日本本土の兵力縮小に伴う演奏機会の減少をリカバーすることに繋がる。GLHにとって、それはとてもありがたい事だったのではないだろうか。

しかし、変化の時は迫っていたのだ。"The Times They Are a-Changin'"

■さよならニッポンおかえりアメリカ。ここに幸あり、カリフォルニアの青い空。

プロモーターの招聘が彼女たちのThe First US Visitのキッカケになったのだろう。冒頭の空港到着の写真を見ても、A&Rがしっかりと働いているのが察せられる。

彼女たちにとって、日本国内での米軍慰問マーケットの先行きを見越したこと、本場のショービズの世界に触れたことで、短期でアメリカから帰国する気はハナから消え去ってしまったのではないだろうか。

”You got to remember these girls! The Gay Little Hearts………
When they played the Airmen Club, it was packed. Do you have anything on them?”
(Photo by Bill Lambert/Fuchu US Airbase Heyday)

Bill sent me a long email with a story about seeing the band in Sasebo in October 1963. He traveled from Tachikawa Air Base to the US Naval Base in Sasebo. He took a US Air Force plane from Tachikawa to Itazuke Air Base. He took a train to Sasebo to see the show. Bill took the train back to Tachikawa. He visited Hiroshima, Kobe, Kyoto, and Osaka on the way back.

Billさんは、1963年10月に佐世保でバンドを観たときの長い話をメールで送ってくれました。彼は立川基地から佐世保の米海軍基地まで旅をしました。彼は立川から板付基地まで米空軍の飛行機に乗りました。彼はショーを見るために佐世保まで列車に乗りました。Billさんは列車で立川に戻りました。彼はその帰りに広島、神戸、京都、大阪に立ち寄りました。

Baugher氏からのメッセージ。翻訳もご本人、一部引用者が加筆。

1950年代から60年代にかけて日本に駐留していた米兵たちも、その多くは軍務を終えて故郷に帰っただろう。

親譲りのアクロバットでスタートした子供時代から10年以上になんなんとする彼女たちのキャリア、Bill Lambert氏やBickel氏のようにひとつの時代、青春の日々を共有したファンも多かったはず。アメリカには、そんな”ご贔屓さん”もたくさん居てくれる。

”ここに幸あり”。Tokyo Happy Coatsが芸歴の果てにやっとアメリカに安住の地を見つけたのだ、と私は得心している。

(了)

本編の作成に多大なご協力をいただいたRoy Baugher氏と宮崎沙織氏に心より感謝致します。Thx!


■Afterword

故ハコモリ桂子さん(Courtesy of Roy Baugher)
(Courtesy of Roy Baugher)

Bickel氏がブログのコメント欄に書いていた”It’s really a shame that the THC does not have a web site.”という言葉を読んだこと、Keikoさんが2024年5月4日に逝去されたこと、それで私はこのマガジンを始めました。誰かがしないなら、日本語でしか出来ないけれど、自分でやるしかない。

数ヶ月の差で叶いませんでしたが、あの『婦人倶楽部』の写真をKeikoさんに見てもらいたかった。

もう少し早く彼女たちの存在に気付けば良かった、もう少し早くBaugher氏と出会えば良かった、いまさらですが後悔しています。

Keikoさん、安らかに。RIP.

◇  ◇  ◇

本編はこれにて緞帳。ご拝読心より感謝致します。本当にありがとうございました。今後は新しい情報や事実が出てきた際は「Bonus Truck」として適時追加していく予定です。

私の希望として、お後はBaugher氏が”THCアメリカ編”をまとめていただくと、GLH/THC『奥の細道』は本当に終着点を迎えることが出来てよろしいのですけれど。ね。


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