1902年。なぜ宮崎滔天はNative-Americanの浪花節を唸ったのか?
■浪曲ファンには有名な、1902年の読売「桃中軒旗揚げ」記事。
ちょっと以前、浪曲(浪花節)の古い資料を探すために、図書館に出向いて明治から大正時代の新聞縮刷版のページをめくっていた。
チェックしていると、娘義太夫の大看板・豊竹呂昇一人の1回あたりの公演収入(ギャラ)が当時人気だった桃中軒雲右衛門一行10名のそれよりも多い、というゴシップ記事(『都新聞』1911年10月27日付)が出てきた。古い新聞記事をひっくり返すと意外な発見があって、とてもオモロイ。
一番の目的は、本稿の主人公宮崎滔天こと桃中軒牛右衛門が、『新體浪花節桃中軒』を組織して帝都東京で旗揚げ公演を行った”という読売新聞(1902年10月3日付)の記事を縮刷版上で確認することだった。この逸話は浪曲の基本資料である正岡容著『定本 日本浪曲史』でも当然ながら紹介されている。滔天と雲右衛門の関係を考える上でとても重要な出来事なのである。
記事の全文を引く。
■どうして滔天はNative-Americanを浪花節のテーマにしたのか?
記事に書かれた滔天の演目『慨世奇談』の梗概を読んで、まず大アジア主義の革命家として名を馳せた宮崎滔天という人物の懐の大きさ、並外れた視野の広さを感じた。2つの点が気になった。
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①1902年の桃中軒旗揚げ公演は、その後の帝都凱旋のテスト・マーケティングだった?
1902年の桃中軒旗揚げ記事では、師匠雲右衛門よりも牛右衛門(滔天)の方が主役となっている。
『浪曲史』の記述に従えば、1898年に雲右衛門が横浜から都落ちした後に京都へ向かったが、そこで滔天は雲右衛門と出会って弟子入りし牛右衛門と名乗ったとある。しかし滔天の自叙伝『三十三年の夢』では1902年に東京の雲右衛門宅で入門したとあって、そこんとこ相違有り。
同じ1902年頃、弟子滔天の紹介で九州博多に向かった雲右衛門は政治結社「玄洋社」と関連企業「九州日報」(滔天は番外記者をしていた)のバックアップを得た。同紙の福本日南はじめ日報スタッフの力を借りて武士道鼓吹「義士伝」が完成したのが1903年頃とされる。九州各地を席巻しつつ芸を練り上げた後、ついに1907年、東京へ凱旋した雲右衛門は本郷座で大当たりを取って、浪曲を以後大衆芸能の王座に押し上げることとなった。
私は、その本郷座大入りの5年前となる1902年の「桃中軒旗揚げ公演」とは、メディアに顔が利いた滔天が仕組んだ、雲の東京凱旋を睨んだ前哨戦、偵察、テスト・マーケティングだったのではないかと捉えている。
九州時代、福岡県久留米市で雲右衛門の盛大な街頭PRを打った逸話が今に残る。これについても、久留米市を含む筑後平野が抱える浪曲マーケットのボリュームを見込んだキャンペーンという見立て。この桃中軒旗揚げ公演も、とてもマーケティングの匂いがするのだ。
ということで、私の本題としては2番目。
②どうして滔天は、Native American酋長の冒険譚を浪花節にして民衆に語りかけたのか?
記事を読んで一番思ったのがコレ。Native Americanの族長を主人公にして、スイスまで世界を股に掛けた”貴種流離譚”というスケールのデカさ。よくもまあ、こんなネタを122年前に考えついたものだと驚嘆した。
”(白人)移住民の為め侵害せられ、既に鉄道施設の計画あり、僅々数十坪に狭められし居宅も又為に掠奪せられんとする”というNative Americanの受難について、滔天はどのような時代背景からそういう認識を得たのか。以前から、そこを自分なりに整理したいと思っていた。
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参考までに、02年の『慨世奇談』に関係すると考える項目について、大雑把でお恥ずかしいが年表を作成してみた。表頭は滔天と雲右衛門、当時の大日本帝國とアメリカ合州国、マイナリティであるNative American、ハワイ王国、植民地フィリピンについて簡単ながら時系列で整理している。
例えば、滔天が兄の影響でアジア主義に傾倒した1890年、アメリカ合州国は自国内の西部域への領土拡張(Go West)の果てに「ウーンデッドニーの虐殺」を起こしてNative Americanに対する国内での民族浄化にひとまずの”ケリ”を付けている。
滔天が唸った「既に鉄道施設の計画あり、僅々数十坪に狭められし居宅も又為に掠奪せられん」という内容から、下記のwikiの記述を見てもわかるが、Native Americanの状況についてどこかから詳報を得ていたのは間違いない。
しかしGoWestは合州国内では止まらず、さらに海を越えてハワイ王国、スペイン領フィリピンを飲み込もうとしていた。1898年、ハワイが準州として合州国に併合されたのと時を同じくしてフィリピン革命が勃発。翌1899年、フィリピン革命後にアギナルドの独立派を裏切った合州国との米比戦争でフィリピンを支援するため、滔天も協力して武器を積んだ布引丸を送った。
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こういう情勢を踏まえると、『慨世奇談』には、アジア諸国の独立と連帯を希求した滔天らしいパースペクティブな目差しを感じる。アメリカ合州国の膨張主義とそれへの対峙を念頭に浪曲の台本を作ったのだろうが、滔天のことだ、”40年後の対決”を予想していたのではないかと勘ぐりたくなる。
■人を見て法を説くーー”平民藝術”について。
滔天が1911年に書いたエッセイ「侠客と江戸ッ子と浪花節」を読むと、滔天にとって、雲右衛門をバックアップした結果である”浪曲中興”を良しとした気持ちは、すでに過去の遺物と化していたようだ。
結局、雲右衛門との協力関係も、雲自身の無学無教養さや増上慢な態度に滔天が愛想を尽かして距離を置くことになったし、さらには皇室をはじめとした上流階級からの愛顧もあって庶民細民のための芸能としてダイナミズムが失われたとして見限ったのだろうか。
「強者に対する鬱憤、抑えんと欲して抑ゆる能わず、弱者に対する同情、制せんとして制するに由な」き下民たちの義憤・ルサンチマンを昇華させる侠客たちのモノガタリこそ、”平民藝術”としての浪曲であると。
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もともと、雲右衛門を玄洋社に紹介した段階から、浪花節が庶民細民に対して語りかける人心収攬の手段として最も適していると滔天は思っていたのではないか、というのが私の邪心。
アジアの自主自存を目指す闘いを支援する中で、英仏など旧欧州勢とは違う、太平洋の対岸から押し寄せる新たな白人覇権の勢力台頭を、”定連たる半天着の御客”である職人たちや町工場・商家の勤め人など下層労働者にどう伝えていくのか。
プロパガンダの天才だったナチスの啓蒙宣伝大臣ゲッベルスは、自身の随員に「輸送船団を組むときは、一番船足の遅い船に合わせないと船団は組めないよ」とその要諦を説いていた。
高邁な思想を高邁なまま伝えたところで、少数のインテリ層には届いても、国民の多くを占める庶民細民には届かない。平民藝術では、平易に解りやすく、滔天の場合はさらに面白おかしく豪放な節と啖呵で伝えて思想へのシンパシーを得る。人を見て法を説くということをよく解っていたのだろう。これは現在でも問われる課題である。
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改めて、宮崎滔天という人物、おもしろい男だと思う。
(了)