脱魂と憑霊1:狩猟、農耕文化から生まれた変性意識
「脱魂(=エクスタシー、幽体離脱、異界飛翔、呪的飛翔)」と「憑霊(=ポゼッション、憑依、神憑り、降神、降霊)」は、一般に、シャーマニズムの2類型の特徴とされるものです。
私は、「脱魂」は狩猟文化のシャーマニズムに特徴的で、「憑霊」は農耕文化の巫術(シャーマニズム)に特徴的だと思っています。
そして、この「脱魂」と「憑霊」は、様々な変性意識状態の中で、最も古代的で、対照的な状態でしょう。
この2つの要素は、シャーマニズムや巫術より後の宗教や神秘主義にも、様々な形で引き継がれていると思います。
当稿では、まず、「脱魂」と「憑霊」のあり方、そして、他の宗教的な変性意識状態との関係について若干の考察をします。
他の宗教的な変性意識状態について取り上げるのは、次稿以降の考察に関わるからです。
その後、「脱魂」、「憑霊」と、狩猟文化、農耕文化などの生産体制との関係についての私見を書きます。
次稿、次々稿では、時代、地域、宗教別で、宗教・神秘主義に見られる「脱魂」、「憑霊」の要素を、思いつくままに挙げていき、生産体制との関係についても少し触れます。
脱魂
まず、やや細かい話になりますが、「脱魂」と「憑霊」がどのような意識状態であるのかについて考えます。
以下は、シャーマニズムに限らず、他の宗教的伝統も対象にします。
簡単に言えば、「脱魂」は魂が体から抜け出すこと、「憑霊」は神霊が心身に乗り移ることです。
正確に言えば、本人、もしくは、周りの者がそう考えている状態です。
実際に、魂が抜け出ているのか、神霊が乗り移っているのか、という問題については、当稿では取り扱いません。
先に書いたように、この2つは、様々な変性意識状態の中で、最も古代的で、対照的な状態でしょう。
シャーマンは、「脱魂」して、飛翔し(必ずしも飛びませんが)、三界(天上、地上、地下)を行き来します。
そして、その目的に応じた場所で、その神霊と会います。
その時、シャーマンが一人で飛翔する場合と、鷲・鷹などの姿の精霊(パワー・アニマル、スピリット・ヘルパー)に乗って、あるいは、一緒に飛翔する場合と、それらの姿に変身して飛翔する場合、などのヴァリエーションがあります。
「脱魂」は、現実の空間にいる肉体感覚やそこにいる意識を、まったく失う場合もあれば、それを残している場合もあります。
現実感覚を残している場合、「脱魂」中に、今、どこどこに来ていると、実況のように回りの人間に話をする場合もあります。
つまり、魂が2つに分離することを当たり前のように考えます。
また、現実感覚を残していても、残していなくても、肉体を抜け出したという意識が弱ければ、「千里眼(遠隔視)」と呼ぶべき体験になりますが、その境界はあやふやです。
また、シャーマニズムではありませんが、他の宗教的伝統では、「脱魂」しているという意識がなくて、肉体のままで異界飛翔をしていると考えている場合もあります。
ですが、我々の常識では、肉体で飛んだり、異界に行ったりはできないので、「脱魂」の一種として受け取れます。
憑霊
他方、「憑霊」の前提には、まず、神霊の「召喚(勧請、招魂、降神)」という行為があるか、もしくは、神霊の側からの主体的な「降臨」が存在します。
地上の空間にでもなく、神像などの依代にでもなく、人の心身の中に呼ぶ(降りる)のが「憑霊(憑依)」です。
巫覡は、神霊を「憑依」させた時、その神霊として言葉を発したり、力を放ったりします。
神霊を「憑依」させる場合、それを呼ぶ「術師」と、「憑依」される「霊媒(メディウム)」を、別の人物が役割分担することもあります。
「術師」は、「霊媒」が語った言葉を解釈する役割(審神者)を果たすこともあります。
「憑霊」には、自我意識や記憶を失う場合もあれば、これらを残している場合もあります。
また、自我意識が肉体を制御する主導権を持っている場合もあれば、失っている場合もあります。
また、神霊と自我意識が一体のようになっている場合もあれば、別の存在、人格として同居しているような場合もあります。
また、神霊に人格があり、心の中で言葉を交わす場合もあれば、人格性がなく、その存在の感覚や感情しか感じない場合もあります。
後者の場合、これを「憑霊」と呼ぶかどうかは、境界があやふやになりがちです。
ただ、「脱魂」と「憑霊」が対照的だからと言って、択一になるというわけではありません。
例えば、シャーマンがパワー・アニマルやスピリット・ヘルパーを自分に宿したり、それに変身したりする場合は、これは「憑霊」の一種です。
シャーマンはその状態で、肉体を抜け出て飛翔するので、「脱魂」と「憑霊」が同時ということになります。
霊視
シャーマニズムの変性意識体験には、「脱魂」、「憑霊」以外に、「霊視」という状態があります。
シャーマンが、ドラムとダンスによってトランスに入る場合は、「脱魂」か「憑霊」の状態に入ります。
ですが、中南米のシャーマンが、幻覚性植物を使用してトランス状態に入る場合、この「霊視」が主要な体験になるのではないかと思います。
「霊視」は、一つには、現実の地上世界にいながら、そこに重ねて精霊などの霊的な存在を視る状態です。
ですが、深いトランス状態に入れば、現実世界の感覚を失っていくので、「幻視(遠隔霊視)」のようになり、さらには、結果的には「脱魂」のようになります。
ちなみに、西洋魔術では、神霊を「降霊」する場合、それを降ろす「術師」と、神霊を「霊視」したり、会話する「見者」を、別の人物が役割分担を行うこともあります。
啓示、瞑想との境界
一神教に良く見られる「啓示」の体験は、一つの宗教的な変性意識の類型です。
「啓示」の中でも、天上の神などを見る「幻視」の体験は、神にヴィジョンを見せられていると受け取ったとしても、「脱魂(異界飛翔)」に近い体験です。
一方、神の言葉を聞く「幻聴」の体験は、それが内から聞こえてくると感じれば、「憑霊(神憑り)」に近い体験です。
ですから、どちらもの場合も、その境界があやふやになる場合があります。
ちなみに、地上に現れた天使を見るような体験ならば、上記の「霊視」と同種のものですが、「見神」などと呼ばれます。
ひょっとしたら、歴史的には、「脱魂」や「憑霊」、「霊視」が、それぞれ、「幻視」、「幻聴」、「見神」に変化・継承されたのかもしれません。
また、東洋の宗教や、神秘家が実践する「瞑想」の体験も、一つの宗教的な変性意識の類型となる場合があります。
「瞑想」には、様々な方法があり、それぞれの意識の状態は異なります。
「瞑想」には、イメージを現実のように思い描く「観想」という方法があります。
イメージした世界の中にいるように「観想」する場合は、「脱魂」に近い体験になります。
一方、神仏を眼前に「観想」するのは「霊視」に近く、それと一体化すれば「憑霊」に近い体験になります。
また、心を無にする「瞑想」によって神仏に接近し、神仏になるような体験をすることがあります。
これらは「脱魂」とも「憑霊」とも言えません。
ですが、現実感覚、肉体感覚をなくすという点では「脱魂」と共通します。
また、自我意識以外の状態になるという点では「憑霊」と共通します。
ですから、その境界があやふやになる場合があります。
例えば、密教に「入我我入」という言葉がありますが、これは修行者が仏に入ること(脱魂)と、仏が修行者に入ること(憑霊)を分けつつも、分けられない状態を表現しています。
ひょっとしたら、歴史的には、「脱魂」や「憑霊」、「霊視」が、これらの「瞑想」に変化・継承されたのかもしれません。
狩猟文化と脱魂
先に書いたように、「脱魂(エクスタシー)」と「憑霊(ポゼッション)」は、一般に、シャーマニズムの2類型の特徴とされるものです。
両状態を合わせて、あるいは、両状態に至る過程を「忘我(トランス、恍惚)」と表現する場合もあります。
ただ、「脱魂」こそが、本来のシャーマニズムを特徴付けるものだと考える、エリアーデのような宗教学者もいて、私も似た考えを持っています。
ですが、先にも書いたように、「脱魂」型シャーマニズムにも、「憑霊」の要素があることも事実です。
私は、基本的に、「脱魂」は、狩猟(漁撈)文化の男性シャーマンに特徴的でだと思っています。
その理由には、以下のような狩猟文化のコスモロジーの特徴があります。
狩猟の対象となる野生の動物は、人間が管理する住環境の外(森、山など)にいるので、狩猟のためにはそこに「行く」必要があります。
さらに、狩猟文化では、動物は、太母(動物の母神)が生み、女神の元からやってくると考えられました。
ですから、動物の魂を太母のもとに送り返す必要があり、特に供犠の場合はシャーマンが太母の元にまで「行く」ことで届けることもあります。
また、シャーマンは、不猟の時にも、それを解決するために太母神のところに「行く」必要がりあます。
動物を生んでもらうようにお願いしたり、太母の世話をしたり、あるいは、動物(の魂)を盗んだり、人間側に原因があるならそれを尋ねたりするためにです。
太母は冥界(地下、海底、洞窟など、一部では天上)にいるので、シャーマンは「脱魂」して「異界飛翔」しなければなりません。
また、シャーマンは、太母の生む力を刺激することが重要な役割なので、シャーマンは男性になります。
シャーマンは、男根=生殖力を太母に捧げる存在であり、「聖婚」を行う存在なのです。
狩猟神秘主義の核心は、太母との自己犠牲的な一体化なのです。
そもそも、狩猟文化では、狩猟を行うのは男性の役割です。
他方、女性の役割は、採集、栽培(初期農耕)です。
この男女の役割には、男性は「死」に関わり、女性は「誕生」に関わるという、根本的なジェンダーの観念があると思います。
女性は、子を生むので、「誕生」に関わるのですが、これは「冥界→地上」という魂の移動です。
女性が、栽培に関わるのも同じです。
他方、男性は女性との対比で、「死」に関わるので、葬儀(魂送り)を主催し、狩猟を行います。
これは「地上→冥界」という魂の移動です。
シャーマンは男性である狩人の代表なので、男性でなくてはならないのです。
シャーマンの「脱魂」、「異界飛翔」も「地上→冥界」という魂の移動です。
ですから、狩人が動物に使う弓や槍は、シャーマンが太母に捧げる男根の比喩にもなりした。
狩人には、狩猟の前に妻と寝ではいけないというタブーがある場合があります。
これは狩猟においては、太母の機嫌を取る必要がある、あるいは、象徴的にその娘である動物を相手にするからです。
また、シャーマンは太母の恋人でもありつつ、子でもあるとされ、二人で「母子信仰」を形成しました。
例えば、オリエント・ギリシャのアッティス=キュベレ信仰などです。
狩猟文化のジェンダーの役割
・男性:死(地上→冥界) :葬儀:狩猟:シャーマンの脱魂
・女性:誕生(冥界→地上):出産:栽培
遊動文化と霊視
狩猟文化でも、遊動時代と定住時代では、その宗教の形態も違うハズです。
ですが、遊動時代の宗教観についてはほとんど分かっていません。
少数のバンド単位で移動しているなら、シャーマンのような専門の宗教者はいない場合も多かったでしょう。
また、「互酬」の考え方、例えば、太母(動物の母神)に何かを与えると、太母も動物を与えてくれる、といった考え方もなかったハズです。
シャーマンは、太母(天の神)と人間(狩人)との間の「媒介者」ですが、そこには「互酬」という原理があります。
ですが、この「互酬」という交換様式は、定住とともに発生した可能性が高いのです。
そうすると、人間は、太母や天の男神のような「主」的存在を相手に「お願い」することはなく、諸霊を相手にして、より現実的な対応をしていたのでしょう。
ですから、「脱魂」や「憑霊」よりも、「霊視」が重要だったのかもしれません。
農耕文化と憑霊
他方、農耕文化では、農作物は、居住地域の近くにある、田畑という人間が管理する半人工的な空間で育てます。
田畑には、太陽光や雨水が必要です。
そのため、農耕文化には、「天と地の聖婚」という観念が基本としてあります。
大地や田畑は女神であり、天には太陽・雷・嵐などの男性の豊穣神がいます。
そして、太陽光や雨水などの豊穣をもたらす男神の力は、田畑にまで「招く」必要があります。
そのため、太陽光や雨水、雷は、男神の男根の比喩にもなりました。
ですから、農耕文化の宗教者は、大地や田畑の女神と同じ、地上にいる女性です。
彼女は、男神を「招く」必要があり、「憑霊(神憑り、招魂)」する巫女となりました。
先に書いたように、「憑霊」は、狩猟文化以来の女性の役割である「誕生(魂の冥界→地上という移動)」に合致し、それを継承しています。
また、狩猟文化以来の、植物の採集・栽培は女性の役割という観念が継承されていることが、農耕の宗教者を女性にしている理由にもなっているかもしれません。
こういった農耕における女性の役割は、例えば、日本では、田植えを行うのは女性の大切な行事とされていたことにも現れています。
田植えは、「早乙女(五月女)」と呼ばれる女性が、雨季の前に、特別な晴れ着を来て行いました。
五月女は、足を見せて、かがんだ姿勢になりますが、これは、女性が天の男神を誘惑して、雨を降らせるためです。
早乙女が笠をかぶっているのも、雨を呼ぶためです。
ちなみに、天の男神の男根でもある「稲妻」とは、稲の妻(妻は配偶者の意味)であり、田に落ちると豊作になるのです。
これに対して、刈り入れは、穀物を殺す行為なので、象徴的に、男性の役割だったのではないでしょうか。
西洋の死神が、鎌を持った男性であるのは、このことに合致します。
また、穂のついた穀物は、妊娠した穀母です。
脱穀や種取りは出産に当たります。
ですから、初穂に関わる儀礼として、出産前の妊婦を模して、農家の女性が初穂と添い寝をする場合があります。
この期間は、穀霊の死と再生の期間であり、ギリシャではデルメルとペルセポネーの神話、秘儀になりました。
農耕神秘主義の核心は、この再生する穀霊に一体化することなのです。
巫女の「憑霊」は、男神を「憑霊」=聖婚して、神の子(若宮)を生むという観念も生みました。
あるいは、毎年再生した神の子を受け入れて、現す(ミアレする)と考えられました。
巫女が神格化され、神の子と共に、「母子信仰(巫女/天神の子)」を形成することもあります。
これは、狩猟文化の「母子信仰(太母/シャーマン)」とは異ります。
農耕文化のジェンダーの役割
・男性:死(地上→冥界) :葬儀:刈り入れ
・女性:誕生(冥界→地上):出産:田植え・種取り:巫女の憑霊
遊牧文化と天上飛翔
アルタイ系などのユーラシア北東部の遊牧文化では、供犠を届けるなどのために、男性シャーマンが「脱魂飛翔」して、天神(天の最高男神)のもとに行きます。
男性シャーマンが「脱魂飛翔」するのは狩猟文化と同じで、相手が天の男神であるのは農耕文化と同じなので、一見すると、両者のハイブリッドのようにも見えます。
遊牧文化の多くのは、狩猟文化から移行して生まれたものですが、その時期は、農耕文化の発生より後の時代です。
放牧は、動物を相手にした力仕事なので男性の役割です。
ですから、狩猟文化から、シャーマンは男性のままに継承されたのでしょう。
ですが、動物は半ば家畜化されていて、人間が世話をします。
ですから、狩猟文化のように、動物を生んで地上に送る冥界の太母(動物の母神)を重視する必要がありません。
また、草を食べさせる必要があるので、農耕文化と同様に、天の男神を重視する必要があります。
そのため、シャーマンが飛翔して行く相手が、太母から天の男神に変わったのでしょう。
また、農耕文化のように、女神である大地を管理した田畑で穀物を育てません。
ですから、農耕文化ほどには、豊穣の力を受け取る=「憑霊」するという観念が発達しませんでした。
そのため、「脱魂」型シャーマンが、「憑霊」型の巫女に変わる必要性はなかったのでしょう。
遊牧文化のジェンダーの役割
・男性:家の外:放牧 :シャーマンの脱魂
・女性:家の中:乳製品作り、家畜の世話
歴史的な変容
歴史的には、人類は、各地で、狩猟から農耕に移行したので、純粋な「脱魂」型シャーマニズムは、ほとんど絶滅しているように思えます。
また、これに伴って、宗教的な心理現象としても、「脱魂」的傾向から「憑霊」的傾向に変化してきたと思います。
さらには、都市化が進んで第一次産業に従事しない人が増え、それに伴って心理的には自我意識が強くなり、思想的には合理主義が強くなりました。
そして、資本主義は、社会の外部に異界を持たず、それを資本の内側に持つようになります。
そのため、時代とともに、「脱魂」も「憑霊」も衰退し、宗教的な変性意識状態としては、「啓示(幻聴・幻視・見神)」や「瞑想」が中心になってきたと思います。
次稿と次々稿では、各時代、各地、各宗教における「脱魂」と「憑霊」の要素を見ていきますが、同時に、生産体制との関係についての推測にも触れます。
私見ということ
これまで、「脱魂」と狩猟文化、男性シャーマンを結びつけ、「憑霊」と農耕文化、巫女を結びつけて、それがいかにも正しい説であるかのように書いてきましたが、このように考えるのは、専門家でもない私の、ただの私見です。
私は、そのように説明した書を読んだことがありません。
学者の間では、「脱魂」型をシャーマニズムの原型とし、「憑霊」型をその派生型とするエリアーデの説に対する論争はあります。
また、「脱魂」型が極北アジアの狩猟文化では発達しているが、農耕文化では衰退している(佐々木宏幹)とか、狩猟文化に男性シャ-マンが多く、農耕文化には女性シャーマンが多い(ピアーズ・ヴィテブスキー)、といった現象を語ることはあります。
ですが、その両者の本質を、生産体制や、ジェンダー、コスモロジーの観点から、本質論として語る論説は知りません。
すでに、純粋な狩猟文化の「脱魂」型シャーマンが、ほとんど見られなくなっていたので、そのような研究ができないからかもしれませんが。
もちろん、実際の各地の生産体制や宗教の歴史は、複雑に錯綜していますし、特殊性もあるので、この図式に当てはまらない事例はいくらでもあります。
ですが、理論モデルとしては、腹落ちしやすいものだと思っています。
*参考書
「シャマニズム」ウノ・ハルヴァ(三省堂)
「シャーマニズム」M・エリアーデ(冬樹社)
「シャーマニズム」佐々木宏幹(中公新書)
「シャーマン」ジョーン・ハリファクス(平凡社)
「シャーマンの世界」ピアーズ・ヴィテブスキー(創元社)
「シャーマニズムの世界」ミハーイ・ホッパール(青土社)
「再生の女神セドナ」H・P・デュル(法政大学出版局)
「シャーマンへの道」マイケル・ハーナー(平河出版社)
「アマゾンの呪術師」パブロ・アマリンゴ(地湧社)
「アンデス・シャーマンとの対話」実松克義(現代書館)
「ベロボディアの輪 シベリアシャーマンの智慧」オルガ・カリティディ(角川書店)