ユングの分析心理学という民族宗教運動
「神秘主義思想史」に書いた文書を転載します。
「ユングのミトラス秘儀参入」では、ユングがヴィジョンの中でミトラス秘儀のズルワン神になったことをきっかけに、「アーリア人のキリスト」になろうとしていた、ということを書きました。
このページでは、改めて、ユングの生涯と思想形成を追いながら、分析心理学の宗教的側面にも光を当ててみましょう。
ユングは、人間の魂は宗教的なものであると考え、精神病理的体験を宗教的体験として捉えていました。
そして、精神医学の仕事は、哲学的、宗教的性格を帯びざるをえないものであると考えていました。
ですが、それだけではありません。
ユングには、心理学を宗教運動化して、人々を救済しようという意識がありました。
彼の弟子達は、新しい使徒であり、新しい騎士団なのです。
ユングは、フロイトの門下にいた時代にも、彼への書簡で、次のように書いています。
「精神分析には、…素晴らしい壮大な使命があるのではないかと思うのです。…知識層に象徴と神話への感覚を蘇らせ、キリストをかつての姿である葡萄の樹の預言者に穏やかに回帰させ、こうしてキリスト教の陶酔的な直感力を、キリスト教団の本来の姿と固有の神話を作るために吸い上げなければならないと思うのです。」
つまり、精神分析学を、ディオニュソス的な新しいキリスト教のようにすべきだというのです。
ユングにはこういった志向があったため、分析心理学は、20世紀の新異教主義の思想潮流や、ニューエイジ運動にも影響を与えました。
精神分析学へ
ユングは、牧師を父として生まれ、若い頃から幻視を見るような子供でした。
ユングはバーゼル大学医学部に入学し、精神医学の教科書を読んだことをきっかけに、その道に進むことを決めました。
これは、彼の第一の人格が持つ科学への興味と、第二の人格が持つ心への興味の両方を満たす道でした。
医学生の時、従姉妹のヘリーを霊媒として、祖父らと交流する降霊術を何度か行いました。
ユングは、死者の霊の存在を信じていたようですが、ヘリーが、ヘリー自身が忘れている記憶によって、物語を創作していることに気付きました。
そして、1902年に、論文「いわゆるオカルト現象の心理学と病理学」で、チューリヒ大学の学位を受けます。
この論文では、ヘリーに降りた大人の女性の霊の人格が、ヘリーが20年後にこうありたいと思う女性像であると解釈し、無意識を抑圧されたものではなく、未来の潜在的な人格として、無意識を目的論的、展望的、予言的な機能を持つものとして捉えました。
ユングは、その後、フロイトの「夢判断」に感銘を受けて、1907年にフロイトを訪問して、精神分析学に傾倒します。
ですが、ユングは、ブロイラー、ジャネ、ブルールノアらの影響を受けており、また、すでにコンプレックス理論を発表していたのであって、彼にとってフロイトは、多数の影響の一つでしかありませんでした。
1908年、ユングは、フロイト派を代表してオットー・グロスの治療を担当しました。
オットーは、ニーチェに傾倒するフロイト派の医師であり、性解放思想の有名な旗手であり、麻薬常習者でした。
ですが、ユングはオットーの治療に失敗するばかりか、オットーの影響を受けて、性解放思想に染まりました。
ユングは、その後、妻帯者であるにもかかわらず、複数の女性患者、研究者と性的関係を持ち、時には、患者にそういったことを勧めることもありました。
性解放思想は、バッハオーフェンによる古代母権制の分析を一つの根拠にしています。
ユングも、古代宗教が性を聖なるものとみなしたことの影響を受けています。
後に出会う、患者であり共同研究者であり愛人であったトニー・ヴォルフは、ユングの霊的かつ性的パートナーとなりました。
つまり、グノーシス主義の伝説による、イエスにおけるマグダラのマリアのような存在になりました。
ちなみに、ユングは、トニー・ヴォルフ経由で、東洋思想や占星術を知ったようです。
1910年、フロイトは、ユングによって、精神分析学がユダヤ人の学問から普遍的な学問になることを期待し、国際精神分析学会の初代会長にユングを選びました。
ですが、ユングは、当時のドイツ文化圏における、アーリア民族主義、反近代、反キリスト教の思想潮流に影響を受け、反ユダヤ的で、アーリア人に根ざした心理学を志向するようになりました。
また、ユングは、精神分析を文化を解放する宗教運動にしたいと考え、そして、大衆に向けて新しい神話を作るべき、精神分析学者の組織はイニシエーションや階級制度を持つ秘密結社的組織であるべきであると、フロイトに訴えました。
変容体験から異教主義へ
1909年頃から、ユングの意識に変容が始まりました。
彼は、春に病院の職を辞して、自宅近くで個人的に患者を診るようになります。
ユングは、この自分の体験から、人は人生の後半になると、「個性化の過程」を歩むべきだと考えるようになりました。
「自伝」によれば、ユングは、古い館のロココ調の最上階から地下の洞窟まで降りると、原始文化の遺産、2人の頭蓋骨を見つけるという夢を見ました。
これは、「集合的無意識」を思いつくきっかけの一つになったようです。
そして、マックス・ミュラー、フリードリヒ・クロイツァー、アルブレヒト・ディートリヒ、フランツ・キュモン、神智学協会の頭脳だったG・R・S・ミードらの書を読み、世界の神話、特に、ミトラス秘儀などのヘレニズム秘儀、そして、グノーシス主義の勉強に注力してきました。
1909年のうちに、ユングは、おぼろげながら、彼自身の新しい理論の大枠の着想を得たようです。
そして、1911年から12年にかけて、ユングは、「リピドーの変容と象徴」を発表しました。
リチャード・ノルは、この書は、エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」に基づき、個人と文化のリピドーの変容過程の一致を科学的に証明しようとしたものだと言います。
ユングは、当時の比較言語学の影響を受けており、それを精神分析学に取り入れようとしていました。
比較言語学は、セム語族と印欧語族(アーリア人)との違いを明確化し、今日の言語の中に祖先伝来の古い要素が含まれていると分析していました。
また、比較言語学者であり、比較宗教学者、神話学者であるマックス・ミュラーは、印欧語族の神話を太陽神話を中心に、言語学と関連させて研究していました。
「集合的無意識」という系統発生的な遺伝要素を重視するユングの思想は、精神分析学に比較言語学や比較神話学を統合したものだと言えます。
ユングは、この書で、「魂の生命力であるリピドーは、太陽によって象徴され、または擬人化されて太陽の性質を備えた英雄の姿となる」と書いています。
彼は、フロイトの「リビドー」概念を、性的なものから拡張して「生命エネルギー」として捉え直しました。
そして、「リピドー」は「太陽」に、そして擬人化されて「英雄」に象徴されるとして、異教の太陽神や英雄の神話の分析を行いました。
誕生し没する「太陽」、死して復活する「英雄」は、常に無意識である「母」からの自立と回帰を繰り返す存在であり、変容する「リビドー」なのです。
また、ユングは、キリスト教に関して、死して復活するイエスにも同様の象徴が受け継がれていたと考えました。
ですが、「人間全体を捧げる」ことで、キリスト教は「人間を自分の本性及び自然一般から遠ざけることにならざるをえなかった」と書いています。
この書は、決してアーリアの神話・宗教を特別視するものではありません。
ですが、この書は、ユングがフロイトと別れるきっかけになった書であり、生涯何度も書き直しています。
フロイトは、この頃、同僚に向けた手紙で、「ユングは今、顕症期の神経症であるにちがいありません」と書き、ユングが病気であるとの判断を示しました。
さらに、フロイトは、同僚アーネスト・ジョーンズの「ユングは世界を救済しようとしています。もうひとりのキリストとして。そこには確かに反セム主義が入り混じっています」という指摘を受けて同意し、「彼はまるでキリストその人のようです」と返事をしています。
「反セム」は「アーリア主義」を意味するので、つまり、「アーリア人のキリスト」になろうとしている、という認識です。
1913年4月、ユングは、国際精神分析協会の会長を辞職し、さらに、チューリヒ大学の職も離れました。
7月には、チューリッヒの精神分析協会も、国際精神分析協会から離脱し、「分析心理学協会」と名を変え、ユングはここと密接な関係を持ちました。
「黒・赤の書」とミトラス秘儀の参入
1913年の11月、12月には、前のページで書いたように、本格的に「能動的想像法」を使ったヴィジョンを観る実験を始め、それを「黒の書」に記録し始めました。
ここには、ミトラス秘儀と同様の体験、神への一体化と、死と復活をユングが体験したことが記されています。
ユングは、「黒の書」を書き続けるのと平行して、「黒の書」に解釈や絵を付け加え、文字を装飾文字にした「赤の書(新しい書)」の制作を始めました。
ユングによれば「赤の書」は未完に終わったのですが、彼自身にとっても、研究者にとっては極めて重要な書です。
ですが、「ユング自伝」の編集者アニエラ・ヤッフェは、「黒の書」、「赤の書」の引用をほとんど避けました。
「赤の書」は秘伝として一部の者にコピーで読まれましたが、これが出版されたのは2009年です。
また、1913年から1914年にかけて、つまり、第一次大戦の直前に、ユングは、大洪水や寒波に襲われるような幻視や夢を何度も見ました。
これらのヴィジョンは、無意識が現れてヨーロッパに死と再生をもたらすことを象徴したものでしょう。
ユングは、これらのヴィジョンが、無意識の個人を越えた領域から生まれたものであると確信を得ました。
グノーシス主義へ
1915年頃から、ユングは、古代思想の中心的な研究対象を、ミトラス教からグノーシス主義に変えました。
1916年夏、ユングは、十字軍の騎士達が、エルサレムで救いの地を見つけられず、ユング邸に現れるというヴィジョンを見ました。
これを受けて、ユングは、「死者への七つの説教」という文章を、古代のグノーシス主義者のバシレイデス名義で書きました。
これは、キリスト教に真理を見つけられなかった者に対して、「フィレモン」が、グノーシス主義へ、善悪を越えた内なる神アブラクサスへと回心するように説くものです。
ちなみに、後年(1952年)にですが、エラノス学会の同士だったユダヤ人のマルチン・ブーバーは、ユングの分析心理学を、心理学を越えて、グノーシス主義的宗教であると批判しました。
1916年、ユングは、分析家と患者ら60人からなる「心理学クラブ」を結成しました。
彼は、ここで、精神分析とは、「集合的無意識」へのイニシエーションであると説きました。
また、「心理学クラブ」を「聖なる騎士団」に喩えました。
ユングは、同年には、セミナーをもとにした「無意識の構造」、1917年には「無意識過程の心理学」を発表します。
ここで、初めて、「集合的無意識」、「個性化」、「優勢因子(優勢形質)」という概念を使うようになりました。
「集合的無意識」は「死者の国」の言い換えであり、「個性化」は「人間生成」とも表現されましたが、「神化」を経た「再生」の言い換えだと言えます。
また、「優勢因子」は「神々」の言い換えであり、ブルクハルトの「原始神像」をユングが心理学化した概念であり、1919年に「元型」という概念に変わりました。
ユングは、1916年に初めて「マンダラ」を「黒の書」に描きました。
ユングの言う「マンダラ」は、中心があり、円と四角から構成される絵のことです。
1917年8月には、每日のように描くようになります。
そして、1918年頃、ユングは、「マンダラ」を描くことを通して、「自己」の概念に到達しました。
ユングは、「マンダラ」を、「個性化」の道、目標、そして、全体性の象徴であると考えるようになりました。
1925年に、ユングは、「心理学クラブ」でセミナーを行い、ここで初めて、「赤の書」に書かれた自分のヴィジョン(ミトラス秘儀のヴィジョンを含む)について語りました。
ですが、このセミナーのノートが発表されたのは、1989年です。
ユングのイギリス人の重要な弟子の一人に、コンスタンス・ロングがいます。
ユングは、彼女がユングの分析心理学をイギリス、アメリカに広げる人物として大きな期待をしていました。
ところが、1921年頃から、彼女は神秘家のウスペンスキー、そして、彼の師のグルジェフに傾倒して、とうとう、ユングから離れてしまいました。
ロング以外にも、モーリス・ニコル、ジェームス・ヤングが一緒に回心してしまい、大きなショックを受けました。
ユングは、ロングに対して、「異国の神々は甘い毒ですが、あなたが自分の庭で育ててきた植物神は滋養に富んでいるのです。…そこは間違った祖霊と間違った魔力の国だからです。…あなたは自分の国に留まり、そして強くあるべきです。」という書簡を送っています。
ユングがウスペンスキーやグルチェフの思想を理解していたとは思えませんが、彼ら、彼らの思想は、スラブ、イスラム系です。
ユングは、ロングに自分の民族の「宗教」にとどまるべきだと、訴えているのです。
ユングが分析心理学を、普遍的なものではなく、民族的な「宗教」と考えていたことが表れています。
錬金術へ
ユングは、夢で錬金術の本を見たこともあって、1926年頃から、錬金術に関心を持ち始めました。
そんな時、1928年、中国学のリヒャルト・ヴィルヘルムから、道教の内丹の瞑想書であり、錬丹術の書である「黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)」の解説の依頼を受け、その書を読みました。
ユングは、東西の錬金術に普遍的なものを見出すことがでると考えて、本格的に西洋の錬金術の研究を行うようになりました。
ユングは、錬金術の研究を始めると同時に、「赤の書」の制作を中断しました。
これは、ユングの内面との対決の終わりを意味しており、ユングにとって錬金術との出会いがいかに大きな出来事であったかが分かります。
また、歴史的な文献の研究に関して言えば、ユングは、グノーシス主義から錬金術に対象を移したわけですが、この理由には、当時、グノーシス主義は資料が少なく、現代の状況とのつながりも見出だせなかったことがあります。
ユングは、錬金術を、現代とグノーシス主義をつなぐ思想と考えるようになりました。
ですが、ユングが研究対象としたのは、あくまでも、錬金術師が錬金術の変成過程に無意識を投影したという点です。
また、ユングは、錬金術の研究と平行して、道教以外の東洋思想として、易経、インド哲学、チベット仏教、禅などの研究も行いました。
そして、ユングは、これらにも、自身の無意識の理論と一致する内容を見出した、と考えました。