見出し画像

仏教諸派の哲学と瞑想実践の違い

仏教各派、具体的には、部派仏教(=声聞乗、特に上座部)、大乗顕教(=菩薩乗、特に中観派、唯識派)、密教(=金剛乗、特に後期密教)、ゾクチェン(=大円満乗)、という4派における、哲学(教義)と瞑想法(実践)の違いについて、簡単かつ分かりやすく、まとめて紹介します。

また、釈迦の思想に近いと思われる最古層経典(スッタニパータ4・5章)や、すでにそこから離反している初期仏教(原始仏典)についても、少し触れます。

短くまとめたものですので、アバウトな記述になります。



目的の違い


部派仏教では、真理を認識して執着をなくすことで、「阿羅漢」となって「解脱」することを目指します。
大乗仏教ほどには、利他は強調されません。
「解脱」した者は、心が停止する「涅槃」を体験し、死後、輪廻することなく心身を消滅させ(教義的には生滅を離れた無為の存在になり)ます。

ただ、最古層の経典という説のある『スッタニパータ(集経)』の、第4章「八つの詩句(義足経)」と第5章「彼岸に至る道」では、釈迦は死後生や輪廻については語らず、識別作用を停止させた現世における「涅槃」のみを説いています。

原始仏典のほとんどは、輪廻説を説いているので、初期仏教や部派仏教の教義は、釈迦の思想とは大きく異なったものである可能性があります。


大乗仏教では、自分が解脱するよりも先に他者を救済する(自未得度先度他)ことを目指し、その道を歩むものを「菩薩」と呼びます。
そのために、菩薩は解脱することなく、輪廻して再生を繰り返します(不住涅槃)。
また、単に真理を認識する(無概念の等引智を得る)だけではなく、他者を救済するために、他者を完全に理解する智慧(一切種智)や、説法の言葉で真理を伝えるための概念的な智慧(後得智)を獲得することを目指します。


密教では、解脱し(仏になって)も、他人を救うために再生したり、化身したりできるようになることを目指します。
そのためには、智恵そのものである「法身」だけではなくて、利他に必要な清浄な魂の体である「報身」、清浄な肉体である「応身」を獲得することを目指します。
この3つを仏の三身と呼びます。
あるいは、最初から存在する真理そのものである「倶生身(清浄身)」を加えて「仏の四身」とします。

また、早く他者を救済するために、まず、自分が最速で悟ることを目指し、そのために、従来の止観法と異なる密教独自の瞑想法を使います。


ゾクチェンでは、再生しなくても、生きている人間に直接的に働きかけることができる虹身と呼ばれる特殊な仏の身体を獲得することを目指します。
これは、カルマを尽くして得られる根源的な元素のエッセンスでできた身体とされます。


煩悩観の違い


部派仏教では、真理を認識し、執着をなくすことで、煩悩を捨てます。
煩悩をすべて捨て去ることで解脱が達成されます。

まず、「三結(知的な煩悩)」、次に、「五下分結(物質的な欲望である荒い煩悩)」、最後に「五上分結(精神的な欲望である細かい煩悩)」をなくします。
そして、修行の到達段階(位階)である四沙門は、煩悩をなくした度合いによって分かれます。


大乗仏教では、まず、知的で後天的な煩悩である「見惑」をなくし、次に、情的で先天的な煩悩である「修惑」をなくします。
部派仏教と大きく異るのは、煩悩に加えて、他人を救済する(一切種智を得る)ために所智障と呼ばれる障害(部派仏教が問題にしない、法に対する執着から生まれる煩悩の潜在的影響である薫習)もなくす必要があるとする点です。

その一方で、すべての煩悩を捨て去ると(菩薩ではなく仏になると)、解脱してしまい再生して他人を救えなくなるので、煩悩を完全になくさずに残すという考えもあります。

修行の到達段階(位階)である菩薩の十地は、煩悩をなくした度合いだけでなく、利他の能力の度合いで分かれます。


部派仏教では「三毒(貪・瞋・痴)」はどこまでも煩悩ですが、密教では、「三毒」の感情でも、分別を伴わない状態ならば清浄なものである(一切法無戯論性)と主張しました。
そのため、煩悩をただ否定するのではなく、それを修行に利用して、対象のないエネルギーとしての智慧に変容させます。


ゾクチェンでは、必ずしも煩悩を捨て去る必要がないと考えます。
煩悩のある心が表れても、即座にそれを自然に解放させ(自然解脱)、カルマを生まなくできるからです。


真理観(存在論)の違い


最古層経典では、釈迦は繰り返し、「教義を持つな」、「論争するな」と語り、哲学的、形而上学的な議論を否定しました。
「私は、これが真実であるとは説かない」と語るのです。
ただ、「表象作用」や「識別作用」を否定し、言葉やイメージの対象が存在しないこと、それらに執着しないようにと説きます。


部派仏教は、実際には、釈迦の語りを収めた経典よりも、個々の部派がそれを哲学的に解釈した論書(アビダルマ)を重視します。
上座部仏教の教義は、5Cにブッダゴーサによって大成されました。
ブッダゴーサは、大乗中観派のナーガルジュナより後、大乗唯識派のヴァスヴァンドウと同じ頃の人物です。

上座部仏教では、一瞬だけ存在する微細な多種の実体である「」が、集合して組み合わさって世界ができていると考えます。
一種の「原子論的」な世界観です。
概念やイメージは、実体ではない集合的な「まとまり」を捉えるものなので、間違った認識を生みます。


大乗仏教の中観派は、部派仏教が実体と見なした「法」も含めて、すべてが実体ではない、本質を持たない(空性)と考えます。

一方、唯識派は、意識(識)を多層的に考え、最深の阿頼耶識には、煩悩を生み出す「種子」があると考えます。
この煩悩のある(有漏の)「種子」をなくし、清浄(無漏)な「種子」にすることで、意識の各層が智慧になります。


密教(後期密教)では、世界は、「極微な」霊的なレベル、「微細な」心のレベル、「粗大な」物質のレベルという、「仏の三身」に対応する3つの次元でできていると考えます。

そして、種子のような存在が、植物が成長変化するようにして、心や外界の存在を生み出すと考えます。
この原型的な種子的存在は、種子マントラや尊格の形姿などで象徴的に表現されます。
つまり、部派仏教のような原子論的な世界観ではなく、「生成論的(発生論的、発出論的)」な世界観です。

密教における「空」の概念は、大乗仏教のそれとは異なり、心や現象を生み出す母体(土台)です。
そして、「空」の認識によって、「仏の三身」が生み出されます。

・極微な身体→法身
・微細な身体→報身
・粗大な身体→応身


ゾクチェンでは、密教以上に、土台としての「空」が積極的に心や現象を生み出し、それらが本来、清浄であることを重視します。
また、密教のように仏の形姿や象徴を重視しません。


瞑想法の違い


最古層経典では、釈迦は、具体的な修行法については語らず、ただ、「(執着しないように)常に気をつけているように」と語ります。
後に「正念正知」と呼ばれるものでしょう。

原始仏典では、経典によって様々に修行法が説かれ、個々人に適した修行法が勧められて(対機説法)います。
基本となる修行法は、「三十七道品(三十七菩提分法)」としてまとめられていて、最も代表的なものは「八正道」です。
ですが、全体として修行法の体系化、定式化はなされていません。

また、真理の認識による解脱(慧解脱)だけではなく、集中するサマタ瞑想による解脱(心解脱)や、信仰による解脱(信解脱)も可能とされます。


上座部仏教では、まず、集中力を鍛える瞑想であるサマタ(止)を行い、その後に、観察する瞑想であるヴィパッサナー(観)によって真理を認識して煩悩を滅します。

「ヴィパッサナー」では、まず、すべての個々の「法」の特徴である個相を識別(知遍知)します。

次に、すべての現象は生滅・変化するものであること(無常)、それらは不変なものではないこと(無我)、それらに執着することは苦であること(苦)を認識(度遍知)します。
この「無常・無我・苦」は、先の「個相」に対して共相と呼ばれます。
また、「三相」とも呼ばれ、「三法印」に対応します。

そして、「法」に対する執着をなくします(断遍知)。

・法の個相を認識:知遍知
→法の共相を認識:度遍知
→執着を絶つ  :断遍知


大乗仏教の瞑想法は、部派仏教の説一切有部の止観法(サマタ、ヴィパッサナー)を大乗化することで始まりました。

中観派でも唯識派でも、実体としての「法」を認めないので、その「個相」も「共相」認めません。
観法では、主に四諦を対象としながら、すべての対象と主体(私、自我)が空であると認識します。

具体的には、中観派では、概念的に空を理解する瞑想と、無概念の状態で直観的に空を理解する瞑想を繰り返します。
これによって無概念の等引智と、概念的な後得智を獲得し、両者を一体化していきます。

・概念的な空の教学の勉強
→無概念の空の智慧:等引智
→概念的な空の智慧:後得智
→等引智と後得智の一体化


後期密教では、「死・中有・(受胎)・生」という輪廻の3つ(4つ)の時期の意識を、「空」の認識と結びつけて浄化することで、「仏の三身(四身)」獲得します。

・受胎        →倶生身
・死(死の瞬間)   →法身
・中有(魂での死後生)→報身
・生(肉体の生)   →応身

そのために、部派仏教や大乗仏教が共有していた止観法ではなく、イメージを操作する観想法(生起次第)と、プラーナを操作する瞑想法(究竟次第)を主要な瞑想法として使います。
「観想法」によって先取り的な準備をし、「プラーナ操作法」によって実際に「仏の三身(四身)」を獲得します。

・イメージを操作する観想法(生起次第)
プラーナを操作する瞑想法(究竟次第)

「観想法」の核心は、自分を仏やマンダラの諸尊と同一化する「成就法(本尊ヨガ)」です。
諸尊を虚空から立ち上げ、そこに帰入させることで、「空」の認識を得ます。
そして、仏として輪廻して「仏の三身(四身)」を観想します。

意識的に思い描くイメージは、きっかけにすぎず、それは強度のある自動的なイメージの生成変化する運動を導きます。

「プラーナ操作法」では、プラーナの身体生理学に基づいて、「死(と中有)」、「性(と受胎)」の状態をシミュレートして、「仏の三身(四身)」を獲得します。

『秘密集会タントラ』では、「死」をシミュレートして、プラーナを胸のビンドゥ(滴)の中にすべて収束させて体験される無概念の「光明」の中での「空」の認識(法身)を得た後、「中有」の誕生をシミュレートして、収束させたプラーナを再流出して「報身」を生み出します。

ヨーギニー系タントラ(母タントラ)では、「受胎」につながる「性」をシミュレートして、頭頂と臍のビンドゥの融解液(菩提心)を昇降・結合させて体験される無概念の「大楽」の中での「空」の認識(法身)を得ます。

『カーラチャクラ・タントラ』では、上記の2つの方法を使い、両融解液を中央管の中に満たすことで、心臓と喉を加えた4つのビンドゥから「仏の四身」と、「空色身(虹身)」を得ます。

・父タントラ :死と中有のシミュレート
・母タントラ :受胎(性)のシミュレート


ゾクチェンの瞑想法には、三昧の状態を維持し続けるテクチューと、カルマを浄化して「虹身」を獲得するトゥゲルの2つの段階があります。

「テクチュー」では、母体としての「空」の意識にある気づき(明知)を常に意識しながら、そこから心が現れ、そこに消えていくことを観察し、それを自然に解放させます。

「トゥゲル」では、特殊な体位法・呼吸法によって自然に脈管(神経系)を刺激するというタントラ・ヨガに類似した手法を使って、根源的な光が自然に現れて消える様を眺めながらカルマを浄化します。
そして、最終的には根源的な元素のエッセンスの次元に意識を合わせて「虹身」を獲得します。

・テクチュー:明知の気づきを維持する
→トゥゲル :根源的な光の出現を観察してカルマを浄化


釈迦が悟った真理と観察の対象


最古層経典では、定式化された形での教義は、「十二縁起」も「四諦」も「三法印」も、語られません。

ですが、初期仏教では、釈迦が悟った真理とは四諦であるという考えが主流となりました。
ですから、「四諦」を認識する瞑想が重視されました。


ですが、紀元後に、上座部仏教では、成仏伝承の影響を受けて、釈迦が悟った真理は「縁起」であると考えるようになりました。
ブッダゴーサは、現象の縁起を認識して涅槃に至り、結果として「四諦」を認識すると解釈しました。
そして、ヴィパッサナーの主要な対象を現象の三相(共相)としました。


ですが、説一切有部の伝統を継承した大乗仏教では、中観派でも唯識派でも、ヴィパッサナーの主要な対象を四諦とすることを継承しました。

ですから、上座部仏教より大乗仏教の方が伝統に忠実なのです。
大乗仏教では、「四諦」の観察と空の観察は結びついています。


密教では、ヴィパッサナーは行いませんが、それに対応するのは、諸尊を虚空から生み出し、そこに帰入させる観想法です。
これは、智慧(空性、未顕現)と方便(慈悲、顕現)の一体性を認識するものでもあり、これは「仏母(明妃)」と「仏」の合体としても表現されます。

・仏     :顕現 :方便・慈悲
・仏母(明妃):未顕現:智慧・空性


ゾクチェンでは、これに対応するのは、心が心の本性から生み出されて、自然に解脱してそこに消えていくことの観察です。
これは、本体(空性)、自性(光明)、慈悲(エネルギー)の一体性を認識するものでもあります。
これは、未発の土台、創造性、動態性を表現し、それぞれが「初めから清らか」、「あるがままで完璧」、「遍満」とも表現されます。

本体:空性   :初めから清らか
・自性:光明   :あるがままで完璧
・慈悲:エネルギー:遍満


涅槃、仏性と観察


上座部仏教の教義では、ヴィパッサナーを行う「心」は対象を取ります。

一方、「涅槃」とは、煩悩をすべてなくして初めて到達する「心」の停止した状態で、認識も対象も存在しません。
「涅槃」に達した阿羅漢は、「涅槃」と同様に「心」の停止した瞑想状態の「滅尽定」に入って休まることができます。

また、ヴィパッサナーの最終段階では、「涅槃」を対象にした観察が求められます。
ですが、ヴィパッサナーは、「心」がリアルタイムで対象を観察することだとすると、矛盾が生じます。
「心」は心が停止した「涅槃」を観察することはできませんし、心が停止した「涅槃」が対象を観察することもできないからです。

ですから、「涅槃」を直後に振り返って観察するのでしょう。


一方、大乗仏教では、異なる論理の立て方をします。

大乗仏教は、菩薩として救済を行うために、心身の消滅として「涅槃」には価値を置きません。
そのためか、「涅槃」を「心」の停止とは考えません。

唯識派では、「滅尽定」の状態でも、潜在意識の「阿頼耶識」が残り、「識(心)」が完全に停止することはないと考えます。

そして、「涅槃」は「識(心)の本性」と表現され、それは対象を取らない主客一体の「心」です。
大乗仏教では、「涅槃」とほぼ同義語の「仏性」という言葉を良く使いますが、これは、主体としての智慧(智法身)と、客体としての真如(理法身)が一体の状態です。


また、上座部仏教では、「心」は同時に一つしか存在しない(二心不倶起説)と考えます。
ですが、唯識派では、「心」は多層的で、同時に異なる「心」が併存できる(二心倶起説)と考えます。

ですから、「仏性」は、煩悩のある「心」と併存できるのです。

大乗仏教の如来蔵派は、すべての人に仏になる可能性=「仏性(如来蔵)」が潜在していると主張しました。


後期密教では、「仏性」は最初から存在している 、そして、現象としての「心」を生み出す母体(土台)であると考えました。


ゾクチェンや南宋禅は、「仏性」は 常に顕在している(煩悩によって隠されていない)、と考えるようになりました。
つまり、「仏性」は、煩悩がある「心」と併存して常に存在しているのですが、ただ、それに気づかないだけなのです。

禅では、常に存在する「仏性」に気づくのは一瞬のことなので「頓悟」ですが、煩悩を滅していく修行には時間がかかるので「漸修」となります。

ゾクチェンでは、「仏性(心の本性)」の気づきを保っていれば、煩悩は滅さずとも、煩悩のある「心」が生まれれば、即座にそれを自然に解放させれば良いと考えます。


*仏教のカテゴリー(マガジン)の他の投稿も参照ください。

*仏教をテーマにしたサイトも参照ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?