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マキシマリストになるまでを振り返る

マキシマリストとは、「なるもの」というより「気づいたらなっているもの」と言った方が正しい気がする。

ミニマリストならば、「よし、断捨離しよう」とか「これからはルールを決めて買い物をするようにしよう」とか、意識してある日からミニマリストへ移行する、という感じだと思う。しかしマキシマリストの場合は、「よし、モノを増やそう」といってなるものではないし、欲しくないものをわざわざ欲しがるようにする、というのはちょっとおかしい。

私自身を振り返ってみても、マキシマリストの兆候は幼少期からあった。気に入った植物の種とか石とかを拾ってきては、自分の宝物箱にしまい込むような子供だったけれど、本格的な入口は、おしゃれへの興味だ

私がおしゃれに興味を持ち始めたのは小学校中学年くらいで、大沢あかね全盛期の『ピチレモン』を小学4年生から6年生まで読んでいた。紙面に出てくる、エンジェルブルー、メゾピアノ、ベティーズブルーといった子供向けブランドに夢中になった。余談だが、私は地方育ちで、ある時東京の同い年の子と文通をすることになったのだけど、その子の愛読誌がまさかの『JJ』で度肝を抜かれたことを覚えている。当時は「東京の子はこんな大人っぽいもの読むのか」と思ったが、今考えれば、いくら都会の子でも小学生に『JJ』は早すぎるだろう。相当早熟な子だったのだな。

とまあ、高校生までは親の保護下にあって、自由になるお金があるわけでもないため、ファッションに興味はあれどモノを買いまくるということはなかった。行動が伴ったのは大学生以降である。アルバイトが出来るようになった私はその自由を謳歌するように、流行りのファッションアイテムを買いあさるようになった。当時の愛読誌は藤井リナ全盛期の『ViVi』。そして興味は流行りのアイテムから古着へも広がった。その頃になるとワンルームは服やらバッグやらでいっぱいになるわけだけど、私はそれで幸せだった。おしゃれして大学にいったり遊びにいったり、友達と「それ可愛いねーどこの?」みたいな会話も大好きだった。

そんな傾向は社会人1,2年目まで続いたが、イギリスへ社会人留学することになったことで、いったん終焉を迎える。理由は簡単、引っ越しのため荷物減らさなくてはいけなくなったからだ。そこからは怒涛の引っ越し人生、外国への引っ越しも多くなったため、欲しいものを欲しいだけ買うという生活はできなくなった。

それでも三つ子の魂百まで。やっぱりモノを買いたい。気に入ったものをそばに置いておきたい。特に行った先々の国では、一目見ればその土地での思い出を思い出せるような、そんな一品を一つは手に入れたい。だからストイックに「使わないものは買いません」なんてことは全くなく、実用性のない小さな動物のフィギュアだとか、現地アーティストの版画だとか、個性がありつつもなるべく嵩張らないものを少しづつ選んでは買ってきた。

こうして年を重ねるについれて、かろうじてファッションにとどまっていた私のマキシマリズム精神は、ジャンルの垣根を超えて、食器やインテリア、アートにまでその触手を伸ばしていくことになった。食器ならば九谷焼、トルコのイズニックタイル、パキスタンのムルタン焼き。布ならば西アフリカのパーニュ、ブータンのブムタン織。
その土地の歴史と文化を感じさせる工芸品で、見た目はやはり、マキシマリスト的といえる色と柄の洪水、みたいなのが好きだった。

そこから今に至るまでマキシマリスト街道をひた走っているが、一つ問題がある。中身は充実してきたが、それを入れる器がまだないのだ。つまり、家がない。というわけで、私がコツコツ集めてきたモノたちは、私と私の夫の実家の部屋に飾られていたり、活躍の日を夢見て大切に保管されていたりする。

実はここ3年、家を買おうと奮闘している。しかしモノにこだわりが強いマキシマリスト。家という人生最大の買い物が一筋縄でいくわけがない。建売住宅やタワマンで済むわけがないのである。「過剰の美学」を持つマキシマリストに、機能美とコスパを追求した現代の家は、つまらなすぎる。

私が3年間かけて探しているのは、大正時代から昭和初期にかけてかけられた洋館、もしくは擬洋風建築。洋館付き住宅でも可。

これを人に言うと、「そんなの無理でしょ!」と言われるが、無理ではない。非常に難しいだけで。3年かけて、条件に合う家はネット上で5、6軒はみかけた。内見にも2軒行ったことがある。しかしタイミングが合わなかったり、値段の折り合いがつかなかったりして、未だに運命の一軒には出会えずにいる。

もしこの記事を読んで、該当する物件に心当たりのある方は、お願いだから連絡をください。



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