幼児性と成熟性 愛にも幅がある
身から出ました錆ゆえに 夢を見てさえ眼がにごる
恨む親でもあればいい 一人生きてく世が寒い♪
別れ話のもつれから殺人に至るというのは
男女の仲というと「おまえは俺のものだ(または、あんたは私のもの)といった度を越えた強い思い込みもあるかもね。
思いが届かず「殺したいほど惚れたのに好きと言えずに言われずに(ネリカン・ブルース)」なんて感情もあったりするね。
幼少期から現実の私の周辺には偶然にも幾つかの殺人事件があり、なんでそんなにまでして人の自由を縛るのさ。あんまりにも身勝手すぎないかい?
といったものでした。それは長いあいだ私には理解不能の”エゴ”でした。
悩んだ末に「無理に解かる必要ない」ものと結論づけた。
なんで人はそうなるのか、どうしても知りたくて、いろんな本に触れてると心理学で「幼児性」ということに目が止まる。それに依れば、殺したいほど好きなのにという感情は幼児性と理解した。それでも一線を越えない理性があれば、幼児性に苛まれながら理性もあるのが、ふつうかな。
丁度その頃「愛するとは信じることさ君ならできる(ぼくの妹に)」という歌詞に惹きこまれた。人を好きになるにも人によって幅があるようです。この辺のことを悟ると大人になれる。
私には「好きだから泣いて身を引く」という潔さが崇高な境涯に映る。
究極の愛。幼児性とはエゴイズム。それに克つ大人の境地こそ神仏に通じると理解した。それから三十余の時が経つ。鏡に映るは白髪が目立つ老境の自分。思えば幼き日から他人の何倍も不自由な人生だったろうに、よく堪えて生きてこれたねと言葉をかけた。そうした視点で、スシローのペロペロ事件を眺めると、それほど難しく考えずとも自然と答えも出るね。
心身ともに健全なれば踏み止まることができる。
「おかげさま」という成熟した大人の発想があれば、その恩に仇で返す行動はしないものである。この「おかげさま」ということを、いつ、どういうタイミングでわが子に教えるか、ここが親の使命ではないだろうか。
ここをしっかり教え込まず(わかってると思う)という親の曖昧にして勝手な願望が邪魔して、わが子の不祥事・不良行為につながる。