次元を問う ー作品が立体になる時
はじめに
こちらは先日ART TRACE GALLERYで開催されたグループ展「立ちあがるかたち」の中で展示した「次元を問う」という作品シリーズの振り返りを軸に作品における平面・立体の定義や、立体作品と彫刻の違いを考えるnoteです。
展示作品をご覧になっていない方でもわかるように、写真も含めてまとめていますのでよければぜひ!
どこからが立体作品なのか、という問い
「諸岡さん、作品が彫刻として成立する要素って何ですか」
「彫刻って、どこからが彫刻なんですか」
これは、今回の展示「立ちあがるかたち」の企画が動き始めた当初に、他の参加作家の方から質問されたことである。
この展示は出展作品を立体作品に限定することを前提とした企画であり、初期段階では「彫刻展」と仮題をつけられていた。しかし、集まったメンバーはわたし以外は普段は絵画や版画といった平面作品をメインで制作している人がほとんどで、大学からずっと彫刻をやっています!というような人間はわたしだけだった。
わたしとしては、そういう普段彫刻を作らない作家の彫刻作品、というものに惹かれることが多く、そういった作品から新鮮な刺激を受けたい、という気軽な気持ちで参加を決めたのだが、初手でなかなかコアな質問を受けてしまい困惑してしまった。
彫刻が成立する要素?どこからが彫刻?
お恥ずかしながら、普段わたしは自分の作品が彫刻であるか否か気に留めたことがないし、彫刻とは…みたいなこともほとんど考えたことがないと言っていい。彫刻で大学院まで出てるくせに…と不勉強を怒られそうだが、彫刻の定義とか、どこからどこまでが彫刻なのか、そういった問いに能動的に向き合ったことがなかった。
そんなわたしが、「彫刻が成立する要素」と聞かれて最初にあげたのは以下のようなものだった
三次元空間に存在する形
形が三次元的に展開している
重力(重力による制限)
質量
量感
素材、素材の質感
触れられる(触れて形を確認できる)
最初、絵画との違いで考えて、(展示物に触れられるかはさておき)実際に形に触れられることや、重力による制限があるということは大きな違いのように思っていた。しかしすぐに、メタバース上で作品を発表する作家もいることを思い出した。
メタバース上では重力の制限はない。重たそうに見えるものでも浮かせることができる。動かすこともできる。しかし、あれも三次元空間に三次元的に展開し存在している形として、彫刻(立体作品)と言えるのではないだろうか。
そうであれば、キャンバスに描かれた絵画だってその支持体を含め三次元空間に存在していると言える気がするし、マチエールが立体的に盛り上がっている絵画とレリーフの違いはどこにあるんだろうか。
平面作品と立体作品の境界とはどこに引かれるものなのか?
考えれば考えるほど、わからなくなる問いだった。
最終的に、展示タイトルは「立ちあがるかたち」となり、展示の説明文では「彫刻」という言葉は使わず「立体作品」という言葉を使うこととなった。(彫刻と立体作品の違いについても結構重要だと思うので、それについて考えたことは次の記事にまとめたいと思う)
というわけで、わたしは今回展示した「次元を問う」シリーズで「どこから立体作品と呼べるのか」を鑑賞者に問うことにした。
鑑賞者の意識、制作者の意識ーアンケート結果から考える
「次元を問う」は#0~#4の全5作品になっている。展示では、全5作品を鑑賞した上で、アンケートに答えてもらえるようにしていた。それぞれの作品に対し「立体作品と呼べるか」と問い、回答を「立体作品である / 立体作品ではない / その他(自由記述)」の3択とした。また、立体作品ではないと答えた作品があればその理由も答えてもらった。
アンケートはそこまでたくさんの数が集まったわけではないが、なかなか面白い意見が聞けたので紹介していきたいと思う。(回答してくださった皆様、ありがとうございました!)
次元を問う#0
これは今回のシリーズで一番はじめに描いた、アイデアスケッチだ。一見平面作品にしか見えないが、手にとって組み立てることで三次元的な形に展開することができる。
約半数が「立体作品ではない」と答えた。特徴的だったのは「その他」の回答として「組立てるという行為によって立体作品になる。組み立てていない状態は立体作品ではない」という回答が2つ寄せられたことだ。
わたし自身も、この作品に関しては「平面作品にも立体作品にもなれる」作品だと考えていたので、意見が割れたこと、そして上記のような回答があったことはとても興味深かった。
他に、立体作品ではないと答えた人の理由に「制作する時には平面だけを見て制作できるから」と制作者側の姿勢を指摘した人もいて、とても鋭い意見だと思った。
そう、確かに私はこれを描いている時、立体作品を作っているという感覚はなかった。あくまで「絵を描いている」という感覚だった。紙を組み立てた状態で描いたわけではない。描いているときは確かにそれは平面だったといえると思う。その指摘は#1、#2にも関係してくる。
次元を問う#1
これはギャラリーの壁と床に直接描かれた作品だ。形状としては完全に建物に依存しているが、一応、作品自体は三次元的に展開しているとは言える。さてこちらのアンケート結果はどうだったか。
こちらも、約半数が「立体作品ではない」と答えた。逆にいうと、約半数は「立体作品である」と答えた。
この他、#0と共通の回答と思われる「平面に描画されていて、厚みや立体感がないから」という意見も多かった。
ギャラリーの壁と床は立体であっても、それはあくまでギャラリーの壁と床にすぎず、わたしの描いた図像はそこに乗っかっているだけであり、作品と呼べるのはその図像の表面的な部分のみである、といったところだろうか。
たしかに、この作品のためにわざわざ新たに壁と床を用意したのならともかく、建築物としてそもそもそこにあるものに描いたのでは、グラフティと同じと言えるかもしれない。手で触れてもそれで感じられるのは既存の壁と床の形であり、図像の形ではない。作品自体の"厚み"を感じられるわけではない。
ところで、この"厚み"だが、場合によっては"奥行き"と言い換えることもできる。
通常、立体作品のサイズを伝える時、W×D×H(幅×奥行き×高さ)という表記の仕方をする。平面作品だと基本的にW×Hしか書かれていない。そこにキャンバスなどの支持体の厚みを奥行きとして記載しているのはわたしは見かけたことがない。あくまで作品はW×Hで表せるその表面の部分なのだろう。
しかし、その観点から行くとこの作品は W1070 × D650 × H690(mm)と表記できる。もし壁と床からわたしが鉛筆で書いたその線だけを抽出できるとして…その線には厚みがなくとも、図像自体には"奥行き"がある、と言えないだろうか?
さて、中にはこれを次元性の観点から立体作品だと答える人もいた。
次元性に注目してくれたこの方は、#0〜#4の全5作品をすべて立体であると回答されていた。
わたしたちは三次元空間に生きている。0次元が点、1次元が線、2次元が面、3次元が立体。4次元がどんな形なのかはわたしにはわからないが、3次元以下のものの形は概念として知っている。しかし、三次元的な厚みのない、本当の二次元的平面を私は見たことがあるのだろうか。
例えば、キャンバスに描かれた絵画が平面作品と呼ばれたとして、しかしそこにはキャバス自体の厚みが、その上には絵の具の厚みがある。紙に印刷された図像でも、そこには紙の厚みがある。ミクロな世界でみればその表面には凹凸がある。
「三次元空間では平面作品を定義する方が難しいのではないか」
初日に来てくれた友人が言った言葉だ。そうなのだ、三次元空間の中では、あらゆるものを「立体」だということが可能なのだと思う。
その観点から見れば、次元としては、たしかにどの作品も三次元ということができるだろう。
ただ、作品の区分として立体作品として見るのか、平面作品として見るのかは、また違うレイヤーにあるように感じる。
それには実際の次元性というよりも、鑑賞者の作品との関わり方に対する意識が関係してくるのではないだろうか。他に全作品を「立体作品である」と答えてくれた方の回答を紹介したい。
鑑賞者自身が体を動かし、様々な角度からその作品を見ることによって作品は「立体作品」になり得るのではないか。その作品を三次元的に捉えようとする体の動きが、その作品を「立体作品」として立ち上がらせるのではないか。
鑑賞する側の定義の一つとしてとても納得できるものだと感じた。
この回答に対して、同展に出展していた他の作家から「絵画でも、角度を変えてみることで見え方が変わる作品はある」という指摘を受けた。
その通りだと思う。そして、詳しくは次回の記事で書こうと思うが、必ずしも彫刻=立体作品ではないように、絵画=平面作品でもないと思う。立体作品と呼べる絵画もあるはずだ。
次元を問う#2、#3
ひとまず、アンケートの結果を見ることを続ける。
#2は合板に絵を描いたのを三次元的に組み立てたもの、#3は3Dソフトで作った3Dデータを3Dプリントしたものだ。
#2と#3については「立体作品である」が100%を占めた。概ね予想通りである。鑑賞者にとってはどちらも迷いなく「立体作品である」と答えられたと思う。
特に#3に関しては“模範的な立体作品”とすら言えると思う。他のものと比較するために出した、疑いようのない立体作品だ。
ただ、制作者側としては#2と#3は制作している時の感覚が大きく違う。
#2に関しては制作している間ずっと「絵を描いている」という感覚だった。描いてから組み立てたため、絵の具を使っている間、立体作品を作っているという感覚がわかないのだ。
(その点で言えば、#1の方はすでに立体として立ち上がっている3面に描き込みしていたため、それ故の描きづらさなどもあり、身体的な感覚として「立体物に絵を描いている」という感覚が強かった。)
対して#3はiPadのスカルプトソフトで制作した。Apple Pencil片手にiPadに向かっている姿は側から見れば絵を描いているように見えたと思うが、テクノロジーとはすごいもので、わたしの意識としては粘土をいじっている感覚に近かった。これは触覚的な話とは違う。
絵を描いている時と、立体を作っている時で脳の使っている部分が違う、と言った方がしっくりくるかもしれない。自分の意識が、表面に向かっているのか、形に向かっているのか。
そういう意味では、#2を制作している時わたしの意識はその表面に向かっていた。1面、1面、表面を描いたものを後からつなげていく。最終的な仕上がりとしては「立体作品」に分類されるのであろうが、私の意識としてはこれは「絵画」だ。#1の項でも少し言及したが、絵画=平面作品とは限らない。立体 / 平面という区分と、彫刻 / 絵画という区分は別レイヤーだ。
そういう意味で、#2は制作者のわたしにとっては「立体の絵画」とも言えるのかもしれない。
次元を問う#4
さて最後の5作目だ。これはAR作品になっている。展示に来ていない方でもURLから試せるのでぜひ体験してみてほしい。
https://palanar.com/ar_contents/morooka_dimensions
これはもう少し意見が割れると思ったが、「立体作品ではない」と答えたのは1人だけ、他は皆「立体作品である」と答えていた。
立体作品ではないと答えた人の理由は以下のものだ。
そう、これだけは展示会場に実体がない。展示会場にはARにアクセスできるQRコードが貼ってあるのみである。鑑賞者は自分のスマホ等でアクセスし、展示会場に3Dデータを出現させる。しかし、スマホの画面越しにしかそれは確認できない。
立体ではないと答えた方にとっては、実体として存在するかどうかが重要な観点のようだ。ARで表示される像はあくまでデータでしかない、それは立体とは呼べない、ということだろう。
近づけば像は大きくなるし、角度を変えれば見え方も変わる。像の裏側に回ってみたり、下から見上げてみたりと、スマホ越しではあるが様々な角度から像を鑑賞できる。この点で、"三次元的に展開している形"とは言えるだろう。しかし、そこに手を伸ばしても触れることはできない。
そして実体がないものには質量もない。平面認知式のARなので基本床などの平面に表示されるが、空中に浮かせることも可能だ。
この作品を「立体作品である」と言うためには、#1の項で出た"鑑賞者が見る際に角度を変えて見る必要が生じているかどうか"というのが鍵になってくる。
例えば、これが固定されたモニター画面に、360度くるくる回転する3Dデータとして表示されていたのでは、使っているのは同じデータであっても立体作品とは言い難いかもしれない。「映像作品だ」と言われてしまう可能性が高い。
つまり、自分の体を動かすことで作品を様々な角度から鑑賞する、という鑑賞者の態度によってこの作品は立体作品になり得るのではないか。
そう考えると、立体作品であるか否かという問題は、やはり制作者側の意図・態度だけではなく、鑑賞者がどのような態度でそれに接するか(鑑賞者がどのようにその作品と関わるか)ということが重要な要素になってくるのだと思う。
余談だが、ARグラスのようなものがより一般的になれば、感覚がまた違ってくるのではないかと思う。手袋型の触覚デバイスなどで触れるようにもなるかもしれない。そうなってくると今度は“実体”という言葉の定義を議論しなければならなくなってくるだろう。
まとめ ー何をもって作品は立体になり得るのか
今回の作品とアンケートは「どこから立体作品と呼べるのか」という問いから始まったが、蓋を開けてみると「何をもって作品は立体になり得るのか」という問答がそこにあったように思う。
その問いについて、アンケートを見ながらわたしが考えたことや、展示が終わってから考えていたことについてまとめていきたい。
・三次元空間に存在している限り、どのような作品も次元性の観点から言えば「立体作品である」と言えるのではないか
・作品の 平面 / 立体 の区分を判断するのには、鑑賞者の態度(鑑賞者の作品との関わり方)が関係しているのではないか。
・平面 / 立体 と 絵画 / 彫刻は別レイヤーの概念であり、立体作品の絵画、などが成立しうるのではないか
(絵画 / 彫刻の区分、立体 / 彫刻・平面 / 絵画の区分について考えたことは、次回の記事で書きたいと思う)
ところで搬出時、#1の作品は、当然だがそのままギャラリーに居着かせるわけにはいかないので、ペンキで上塗りして消した。ペンキをつけたローラーでその表面を塗っている時が、自分にとっては一番(平面作品だな…)と感じた瞬間だった。表面を塗りつぶすことでその存在を消せるという事実が、あまり立体作品らしくないと思ってしまった。やはりこれは、"三次元的な奥行きをもった平面作品"だったのだろうか?
もう一つ、この作品だけ形として残らないため、iPhoneで3Dスキャンをとった。こちらもARで見られるようにしたのでよければ体験してみてほしい。https://palanar.com/ar_contents/jigenwotou01
3Dスキャンしたものを見ると、今度はこれは一見、立体作品らしく見える。建築物から引き剥がされ、独立したからだろうか。しかし、#4のARとは違い、裏に回ると消えてしまう。裏側がないのだ。そう言う意味ではやはり、現実に書かれたキャンバスの絵なんかよりもっと、二次元平面的であると言える。
そんな風に考えていると、いつまでたってもなかなか結論がでないわけだが、その時その時の体験の仕方によって認識の仕方が変わってくるというのが一番しっくりくる。
壁や平面に描いている時、わたしにとってそれは平面だと感じるし、それがいざ立ち上がって、体を動かしながら様々な角度から鑑賞することで立体になる。そして、ペンキで塗りつぶしながらそれはまた平面に戻るのだ。
その時の意識が表層に向いているのか、形や奥行き・空間といったものに向かっているのか。
#0、#1や#4のような作品が立体作品に見えたとして、それはその作品自体が立体的に立ち上がっているというよりも、それに向き合う人の意識がその形を立体的に立ち上がらせているのかもしれない。
次回は、今回はあえてあまり触れなかった「彫刻」と言う言葉についてもう少し考えたい。わたしのような不真面目不勉強な輩が、そんなド直球で真面目なテーマについてあれこれ書くと怒られそうで非常に怖いのだが、あくまでこれまでの体験と今回の展示を通してわたしが考えたこととして書き残せたらと思う。