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宇宙ー石ころー自分

 石がごろごろ転がる川べりを石を鳴らしながら歩く時、石ころを拾う時、拾った石ころをポケットの中で転がすとき、宇宙について考えることがある。

 子供のころ、宇宙の果てとか、宇宙の始まりとか、そういったものについて考えては怖くなることがよくあった。そういう自分の想像力の限界をこえたスケールのものについて考えると、自分の存在や今あるこの世界はなんて瑣末なものなんだろう、と感じて怖かった。自分達からすれば、何億年という時間のスケールは永遠にも感じられる途方もない時間だが、宇宙にとってはーひいては、あるのだとしたら、この宇宙の外側にある存在にとってはーほんの一瞬のことなのかもしれない、と思うのだ。

 それは例えば、石と石がコツンとぶつかって、火花を散らしたその瞬間、その石と石が接したその瞬間、そのくらいの一瞬の中に自分達のこの世界が、宇宙があるのではないだろうか、と思うのだ。
 そしてその2つの石が転がって離れたその次の瞬間には消えてなくなってしまう。この途方も無いスケールの宇宙も、実はそんな刹那的な存在なのではないだろうか。そんなことを考えてしまうのだ。

 そんなことを考えると、じゃあ自分の足元に転がる石たちの中にも、宇宙があるのではなかろうか、とそんな気がしてくる。自分の足の下で石と石とが擦れて音を建てる時、私が意識もしないその瞬間に、そこに宇宙が生まれてそして消えていく。でもその宇宙にいるわたしのような存在からすれば、それは何億年というような果てのない時間と空間の広がりを持っているように感じられるのではないか。たった一瞬のその瞬間に、永遠にも感じられる時間と空間が詰まっているのではないか、と。

(川で拾った石を鉛筆で描いたもの)

 石がごろごろ転がる川べりを歩くと、そこにはそんな風に無数の宇宙が存在しているような気がする。わたしが歩くたび、川の流れが石を転がすたび、宇宙が生まれては消えていく。自分が今いる宇宙の果てやその外側を想像するのと同じように、それは少しゾッとする想像で、考えてはちょっと怖くなる。しかし同時に、ロマンがあるとも思う。

(海で拾った石を鉛筆で描いたもの)


「宇宙がフラクタル構造になっているイメージなんだね」

 夫にこの話をした時に言われた言葉だ。その通りだ。その感覚はずっと自分の中にあって、大学1年の時に発表した「universe」という作品では、細胞を模した球を星座の並びに吊るして展示したりしていた。

universe (2012)

 自分や地球は宇宙を構成する細胞のような存在だという感覚と、自分の中にもある60兆もの細胞を想像すると、その細胞たちが宇宙を構成する星のような、自分の中にも宇宙があるような、そんな気がしてくるのだ。

 初めてその感覚を抱いたは、小学生の時にイームズ展で「Powers of Ten」の映像を見た時だった。

 初めはピクニックをする2人の男女の映像から始まり、そこからカメラがどんどん上空へと移動していき、いつしか街全体を、地球全体を見下ろすまでになる。それがさらに進んでいき太陽系全体、銀河系全体を見渡せる距離に、最終的には光を観測できない100000000光年の地点まで旅をする。 
 そこから今度は折り返し、地球へ戻ってピクニックをする男女のところまで戻ったかと思うと、今度はカメラは男性の手の甲へと近づいて行き、皮膚組織、毛細血管、白血球、細胞、DNA…そして果ては原子核と陽子が映る。

 子供の頃その映像を見た時に、宇宙の果てと体の中の果てが、繋がっているような奇妙な感じがした。自分の体の中もどんどん拡大していくと、そこに宇宙の果てがあるんじゃないか、そんな風に思ったのを覚えている。


 もう一つ、そんな自分の考えに影響を与えてくれたものがある。アーシュラ・K・ル・グウィンの「ゲド戦記」の第1巻「影との戦い」にでてくる手わざの長の言葉だ。

 主人公であるゲド(まだ若く、魔法を学ぶロークの学園に来たばかり)の「石ころをダイヤモンドに見せかけるのではなく、石ころを本当のダイヤモンドに変化させる術はないのか」という質問に対する答えとして、手わざの長はこんなことを言う。

「この石ころを本当の宝石にするには、これが本来持っている真の名を変えねばならん。だが、それを変えることはよいか、そなた、たとえこれが宇宙のひとかけにすぎなくても、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。そりゃ、それもできんわけじゃない。いや、実際可能なことだ。(中略)だが、その行為の結果がどう出るか、よかれあしかれ、そこのところがはっきりと見きわめられるようになるまでは、そなたは石ころひとつ、砂粒ひとつかえてはならん。宇宙には均衡、つまりつりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡を揺るがすことにもなるんじゃ。」

アーシュラ・K・ル=グウィン作 「ゲド戦記 影との戦い」(岩波少年文庫)

 石ころひとつ、砂粒ひとつが、下手をすれば宇宙の均衡を揺るがすほどの重みをもっているという考え方。自分は宇宙にとっては瑣末な石ころのようなものだと思っていた自分には、この考えはとても響いた。
 たとえ自分が瑣末な石ころであっても、そんな瑣末な石ころも宇宙を構成する一部なのだと、そう感じることができたからだ。

 川べりを歩く時、そこに在る石は数が多すぎてひとつひとつを手にとってじっくり見るなんてことは到底できない。気付かずに通り過ぎてしまう石がほとんどだろう。そうした石たちは誰にも気付かれないまま、しかしそこにじっと存在している。ただの瑣末な石ころとして。だけど、宇宙の一部として。もしくは、宇宙を内包する存在として。

 石ころをダイヤモンドに変えるなんてことはせず、石ころは石ころのままにしておくのがいいのだと、手わざの長はいう。わたしもそう思う。たとえ石ころをダイヤモンドに変える力があったとしても。
 曲がりなりにも普段は石を彫って作品を作っている身で、こんなことをいうべきではないのかもしれない。しかし、わたしがやっていることはせいぜい石の見せかけを変える程度だ。どんなにわたしが石を彫りこもうと、それが石以外の何かになることはない。石は石だ。その本質は変わらない。

 そのことはわたしを安心させる。

「King」ライムストーン 2020年制作(部分写真)

 石に触れる時、石と石がぶつかる時、そこに別の宇宙が生まれて消えたとして、そこにはどんな宇宙があるのだろうと想像する。人間のような生き物はいるだろうか。太陽のような星があるのだろうか。そもそも全然物理法則が違うのだろうか。だけど、どんな宇宙にも石はある気がする。わからないけれど、どんな宇宙にも、石は転がっていると思う。そうだといいな、そんなことをたまにふと考えたりしながら、石に触れている。



*ゲド戦記の話題がでたので関連記事として以前(もう6年前…!)に書いたゲド戦記全巻の読書感想文の記事を貼っておきます。
(それぞれ単体でも読める構成になってます)

石の話が溜まってきたので石の話をまとめたマガジンをつくりました。全部無料です。こちらもよければご覧ください。


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諸岡亜侑未
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