音楽の「価値」ってなんだ?
なにかをすることに「意味」は必要か?
ご存じのように、私は趣味で楽曲の制作をしています。と言っても、私は楽典を中途で挫折した人間ですので、独力では作曲出来ません。自分で作ったモチーフをプロの音楽家に手渡して曲作りしてもらっています。
まあ、そんなことをもう10年以上も続けておりますと、いい加減演奏会を開いて誰かに聞いてもらいたくなるものです。私もクリエイターの端くれなんですね。で、この間ずっといわゆる「ピアノ演奏家」と呼ばれる人たちの許を訪ね歩いたわけです。
ある演奏家を訪ねた時のこと、こんなことを言われました。この方の発言を要約して書きますとですね、
「確かにプロが作曲しているんだろうけど、元は素人が作ってるんでしょ。そんな音楽に意味があると思いますか?作曲は努力して独りでやるものです。メロディーだけ作って、あとは他人にお任せなんて、そんな曲に意味も価値も無いですよ。私にはそんな物を弾く時間はないんです。こんなことにお金を使うのは無駄だから、止めることをお勧めしますよ。きっと誰も演奏しないと思いますから」
と言い、私のお金で支払ったコーヒーをゴクゴクと喉に通し、そそくさと店のドアへと歩いて行かれました。まあこの10年間、こんなことの繰り返しですけどね。
まるほど。ご高説ごもっとも。私は音大を出たわけでもないし、楽器も弾けない。何だったら出来た曲の譜面さえ読めません。そんな私が作ってもらった曲に、人生ピアノ一筋の人たちが「意味」を見出せないのも分かる気がします。
でもまあ、私は別に「意味」を求めて曲を作っているわけではないんですね。好きでやってるだけ。独力では自分の創造力を発揮出来ないから、才能豊かな人の力を借りているんです。ポップスなんて作曲ソフトを使ったり、最近ではAIだって使うのかな?一昔前は作曲家とアレンジャーが合作していることも当たり前です。もしこの方のおっしゃることが本当なのだとしたら、ポップスは全て「意味のない音楽」と言えますね。そんなことはないでしょうに。
そもそも、何かをやるのに「意味」って必要なんでしょうか?
私の大好きなタモリさん。あの人が世の中に出るきっかけとなったのは、誰もが知る”イグアナのマネ”ですよね。赤塚不二夫と二人で真剣にイグアナのマネをしているシーンを見たこともあります。そんなタモリさんのコメントなんかを読んでいると、「意味」のあることを自分はやらない、というようなことを考えているようです。まるで現代の「老子」ではないですか。まさに偉人です。
意味なんて普遍的なものではありません。うつろう物です。「行く川の流れは…」ですね。趣味なんてまさにそう。マンホールの蓋の写真をコレクションしている人もいるし、トイレットペーパーの芯を集めている人もいる。その人にとっては宝物でも、他人にとってはゴミ同然。意味のあるなしそのものが、実は「意味」がないのです。そんな意味のないことに価値観を持っていること自体が、私はナンセンスなんじゃないかと思います。だから、私の制作する曲に関心のある人もいれば、無い人もいる。実際、noteで曲を紹介していても聴いてくれる人は稀です。でもそんなものです。誰かが聴いてくれたらもうけものなんです。
ですから「意味」はなにごとかの基準には決してならないのです。
シュポァとベートーヴェンの話
私はシュポァが好きなんですが、残念ながらこの人のバイオリン協奏曲を日本で聴くことは稀です。室内楽はよくやっていると思いますけどね。私は特に2番、4番、11番が好きで、cpoやナクソスは有難いことにシュポアの協奏曲を全曲録音してくれていて感謝しています。
ご存じのように、ベートーヴェンとシュポアは同時代人です。ベートーヴェンを継ぐのはシュポァか?なんて言われたこともあったようで…。ところがどうでしょう。今は無情にも、ベートーヴェンの知名度が圧倒的ですね。
当時は二人の作品はどちらも盛んに演奏されていたと思います。でも時代のフルイにかけられて、シュポアは脱落してしまいました。(この日本では)理由は様々でしょうが、基本的にはリスナーに彼の音楽が選ばれなかったということでしょう。聴衆がベートーヴェンを選んだ。それだけのことです。私にとっては残念な結果ですが、私一人の力でシュポァ人気を支えることは出来ません。実に無情ですねえ。(彼のバイオリン協奏曲の第2番、もし興味ある人は是非聴いてみてください。第2楽章のキレイな旋律は、決してベートーヴェンに引けを取りませんから)
だから思うのですが、音楽の価値はリスナーが決めたら良いんです。評論家や演奏家が決めるのでなく。リスナーに提示する前に、彼らが曲を潰してしますのはどうなんだろうと、私は思います。先ず聴衆に提示してみる。それで反応を見ながらコメントするなり引っ込めるなりすれば良いのではないかと。
「大衆が必ずしも価値ある判断をするとは限らない」と専門家は指摘するかもしれません。確かにそうです。ですが、バッハの例を私たちは知っています。バッハの価値は既にモーツァルトもベートーヴェンも気づいていました。でも大衆にとっては「誰それ?」でしたよね。ずっと後になって、メンデルスゾーンが「こんなすごい人がいたんですよ」とやったから、今のバッハがありますね。大衆の価値観も「意味」同様、うつろうのです。初演当時は全く顧みられなくても、作曲者の死後に評価される、なんてことは当たり前にあります。
「価値」や「意味」の姿とは?
私のお世話になっているある音楽家に訊ねたことがあります。
「硬質な演奏が聴く者に緊張感をもたらし、演奏家の深い見識を感じる演奏でした、などとよく音楽評論家が言ってますが、あれは音楽的に本当のことなんですか?」
すると音楽家さんは言いました。
「個人の主観だと思います。あまり深く考えないことをお勧めします」
でしょうね。そもそも見えない音楽を言葉で表現すること自体に無理があると思います。しかしながら、難しい言葉を操ってさもそうであるかのように、聴衆の感情をリードする評論家の技は大したものだと思います。良い仕事をするとは、このようにいかに難しい事をやってのけるかだと、私は音楽評論家から学びました。
技術者がどんなに「いい車を作った」と思っても、売れなければ市場から消え去ります。市場から消えたからと言って、その車は価値が無いと言えるでしょうか?ただ大衆に選ばれなかっただけ、価値の有無とは関係ありませんね。車マニアの記憶にはずっと残るのです。人々の記憶に残れば、それだけで「価値」ありです。
音楽に限らず、意味や価値は普遍的なものではありません。時代によって、国によって、人によって、それはうつろいていくものです。そんな不確実な物にすがってしか生きられないのは、実につまらない人生じゃありませんか?
何事もとりあえず否定せず、提示させてみる。提示されたものをジャッジするのは消費者です。でも消費者に選ばれなかったからといって、価値や意味が無いとはいえません。
だって、価値や意味はあなた方、一人一人の頭の中で作られるのですから。
おしまい