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『アルジャーノンに花束を💐』読了

名作古典となりつつある『アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)』を読了。
財力、権力、名声など多種多様ある力の中
人間社会における『知力』を取り扱う特別な作品だった。知力は憧れの対象にも、他者を打ち負かす力にも、視点を共有する道具にもなる。

主人公の男性は外科手術により、白痴⇄天才という『特別』な立場を行き来する。天才になると、白痴のころ神聖視していた人々が、自分となんら変わらぬ人間だったことを知り、向けられていた言葉の本当の意味を理解する。胸が痛くなる。
主人公は次第に「僕も人間だった」と憤るようになる。

主人公は途中から、「白痴だった自分」を別人格として解離的に認識し始めるが、わたしには違う人物には思えない。詳らかな主人公の体験・感情を共有しているため主人公に肩入れしてしまうからかもしれないが、常に主人公に一貫性がみえるのだ。幼少期に母に植え付けられた行動制限に苦しみ、常に真実を知ることに意欲を持つことは変わらない。
では、なぜ主人公は違う人間だと認識し始めたのだろうか?他人から別の人間だと扱われてしまったからではないのだろうか、と私は推察する。
別のポケットに過去の自分を入れてしまったのだ。潜在意識の書き換えには他人が関わっているのではないか。

そもそも手術を受けたのは、友達と話したい、そのために賢くなりたい、無意識下の幼少期の母の悲願の記憶からであった。主人公は「誤解なく受け入れられたい」とただ望むが、この話の主題である「知力の差」が常に立ち塞がる。IQが違うと話が成り立たないといわれる。高すぎるIQによって愛する人に拒まれる主人公をみると、主人公が他人と同じIQを持てたらどれだけ楽か...と感じる。
主人公は他人と仲良くなりたくて手術をうけたが、共通する知力は得られなかった。他人と共通する境遇さえないのだから、繋ぎ止める愛の糸が、常に憐れみや尊敬や同情に偏っている。
その点、アルジャーノン(ネズミ)は、同じ手術を受けたため終始唯一主人公が愛着を注ぐ存在だった。常に「特別枠」を強いられる主人公は共通点という愛着の原動力をもつ存在が人間にいないのだ。孤独も頷ける。
ところどころで尊敬や羨望でない主人公の愛情が垣間見えるが、勝てなくて苛立っていたアルジャーノンを打ち負かし愛情を抱いたように、知力ではなく、自分より弱いものをみることで、人は愛や平等の意味を考えるのかもしれない。と感じた。

「誤解されずにつきあいたい」
「居場所がほしい」
「他人の行動によって深く傷つく」
普遍的なものはすべて変わらないのに、生きることはどれだけ難しいことなのか。
そんな言葉に集約される作品だった。

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