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防衛大学校の闇~連鎖した暴力...なぜ~

2019年4月の話だが、日本テレビNNNドキュメントで、「防衛大学校の闇~連鎖した暴力...なぜ~」が放送された。
実は、ディレクターは、ボクの大学映像サークルの後輩であり、この防衛大学校の現実を捉えた、しっかりしたジャーナリズム番組が制作されたことは、素晴らしいと思う。
ボクは、自衛隊には敬意を持っている。
だからこそ、防衛大学校には、問題意識を持って変わって欲しいと願う。

しかしながら、以前にも書いたことであるが、イジメは、人間が集団になった時、必ず発生するものなのだ。防衛大学校でさえこの有様だ。いや、規律、上下関係を重んじる集団であれば、なおさらイジメが発生するのだ。

人間は、他人と出会った瞬間に、優劣、ヒエラルキーを意識してしまうのは、動物的な本能ではないのか。もちろん、その遺伝子的に刻まれた競争意識によって、人間という動物は自然界で生き残ってきたのだ。
悪い意味ばかりではないことはわかる。
しかし、人間の社会的な歴史は、動物的なヒエラルキーの束縛から逃れようとして「自由(Liberty)」を追い求めてきたのではないだろうか。
フランス革命の Liberté Égalité Fraternitéの思想を持ち出すまでもなく、長い時間をかけて、やっと「自由」と「平等」を少しずつ手にしてきた。しかしながら、本能的、遺伝子的にヒエラルキーを意識する競争意識は残っていて当然なのだ。

ボクが思うに、人間の社会がさらに進化していくためには、「自由」と「平等」を手にした時に、ヒエラルキーを意識する動物的本能を無視しないこと、無くなったと思わないこと、その本能があることを前提として、どのようにコントロールするか、を真剣に考えなければいけないのだ。

あえて自衛隊を「軍隊」とは呼ばないが、アメリカをはじめ、他国の軍隊のように、上下関係を強く意識させるならば、なおさら、イジメにつながる人間的本能がむき出しになることは、当然のことなのである。

スポーツだって、会社組織だってそうだ。
「全て平等にしましょう」とか、「お手てつないでみんな仲良く」と、今の日本の一部学校教育で理想論的に語られる「平等」は、人間の本能を無視して語るために、イビツな結果しか生まないのだ。
それでは社会が成り立たないことは当然である。
遺伝子に刻まれた人間の本能をもって、社会生活を営まなければ成り立たないのが、悲しいかな、人間という動物なのだ。
日本では封建社会から、市民(フランス語で言うところのcitoyen)が権力を奪う「市民革命」が無いままに、民主主義国家となった。
そのことを語ると、ここでは言い尽くせないくらいの議論になるかもしれないが、日本は、組織を作る時、その人間の本能をコントロールする術をあまりにも知らないまま、それでも一見「平等」に見える社会を築き上げている。
第二次世界大戦の日本軍の悲劇だって、そこから発生したのだ。
一見「平等」一見「民主主義国家」となった今でも、日本人は、日本社会は、その本能をコントロールする術をあまりにも知らな過ぎるのではないだろうか。

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