20241117 映画『本心』自分さえも自分を裏切るのに
映画『本心』の舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。自由死を選んだと思われる母親をAIで蘇らせることで、母の本心を知ることができるのか―というヒューマンミステリー。主人公の石川朔也を池松壮亮が演じている。
朔也の一人きりの家族であり、優しい母親を田中裕子。生前の母と親しかったという、過去に曰くがありそうな女性、三好を三吉彩花。朔也の幼馴染、岸谷を水上恒司、その他には、VF-ヴァーチャル・フィギュアという技術で、仮想空間に人間を作る開発者野崎を妻夫木聡、作り出されたVFを綾野剛が演じている。
2025年から始まる物語は、近未来といえども今と地続きの世界で、見た目は何も変わらない。
豪雨の中で川に落ちた母を助けようとした朔也は、結果一年間の昏睡状態から目覚め、母が自由死を選んだことを聞かされた。
AIにとって代わられた工場の仕事は工場ごとなくなり、岸谷の紹介で始めたのは「リアル・アバター」という仕事だった。自身のカメラ付きゴーグルと、依頼者のヘッドセットを繋ぎ、遠隔で依頼者の指示に従いながら、自分の身体を丸ごと貸し出すような仕事だ。
そんな仕事を続ける中、朔也は全財産で母親の「ヴァーチャル・フィギュア」を作成することを決意する。母のVFを制作するための情報を、三好に提供してもらったことから、朔也と三好、そしてVFとして蘇った母との暮らしが始まっていく。
石川朔也は主人公でありながら、共感するのが難しい男だ。
母の死も、母が自由死を登録していたことも認められず、あんなに楽しく暮らしていたじゃないか、というけれど、生前の母親への態度は心配りができていたとは言えない。普通の母と息子だ。
それでも、高校時代に前科がつくような事件を起こし、どこか隠れるように生きて生きた彼には母親と岸谷しか居なかったのかもしれない。幼馴染の岸谷も決して見ていて気持ちのいい男ではないけれど、それでも朔也を利用するだけではなく気にかけているのがわかる。
朔也は、尊大な依頼人の仕事を引き受けながら、居た堪れなさや卑屈さを隠し切れない。かといって落ち着いた場面での彼の言動にはきちんと筋が通っていて、決して賢くないわけではないことも伝わってくる。自分の考えも確かにある。それは、ほんのわずかな抵抗と共にひっこめられてしまうような考えでしかないけれど。
今と同じようで同じじゃない社会は、格差がより浮き彫りになっていくことを岸谷や朔也の仕事であるリアル・アバターの姿が教えてくれる。
人が人を使い捨てるように、一方的な指示と評価を与える依頼者の姿はわかりやすく露悪的だ。
もっとも、朔也と三好以外の「人間」は皆、自分の希望や欲望を隠しもしない。岸谷がもっともそうで、水上恒司は岸谷の人間らしさをうまく表現できていたなと思う。
岸谷に関して言えば、朔也よりもよほど切実に、自分が置かれている社会状況を憂い、恨んでいるのが伝わって来た。どこかで朔也を小馬鹿にするようなことを言いつつも、きっとずっと朔也のことを気にかけてきたのだろう。三好に気をつけろと言う警告も、自分とここを抜け出そうと必死に朔也にわかってもらおうとする姿もとても人間くさくて良かった。まるで、感情や考えを表に出せない朔也の、ある部分の感情を担っているようにさえ見えた。
朔也と三好だけでなく、母親にも朔也に話していない、人には言えない”過去”があった。互いに抱えるトラウマにより距離を縮めたり、お互いだけを特別にすることもできず、朔也と三好の関係も変わるようで変われない。そこに現れた、仲野太賀演じるイフィーは、はっきりと三好への好意を隠そうとしない。朔也にも、仲を取り持って欲しいと率直に依頼する。イフィーもまた、朔也の足りない一面のように見える。
三吉彩花演じる三好の、感情の表し方が良かったな。わかりやすく悪いか無神経な奴か、わかりにくい男たちが溢れる中で、三好はきちんと怒りも悲しみも怖さも隠さない。でも、場面をひっくり返すようなこともせず、彼女は彼女なりに自分を守りながら、相手を尊重している。抱えた寂しさが美しい俳優さんだと思った。
人間は誰しも不完全だし、不完全でいいのだけど、朔也のそれはかなり際立っていると思う。本来ならば、シンパシーを感じることができそうな点はいくつもあるのに、それができない石川朔也、という男の存在が、ずっとずっと映画を観ている間不安な気持ちにさせる。いつか、何かをしでかすのではないかというような、破滅的な雰囲気や狂暴性を必死で抑え込むような演技が池松壮亮は上手いと思う。
監督や原作者のインタビュー記事などをいくつか読むと、映画は原作に比べてまっすぐに描いていないことがわかる。自由死についてや、朔也が何より知りたかった母の本心についての部分が思ったよりも少なくて、少し散漫な印象も受ける。
過去の事件やトラウマや秘密、格差社会を抜け出そうと画策される事件、リアル・アバターを人と思って居ないような依頼に、富める者との三角関係。俳優の演技が上手くて、一つ一つの場面は素晴らしいのだけど、全体を繋げると要素が散らばり過ぎている気もするし、でも、それこそが混沌の社会で生きているということのような気もした。
VFになった母親とのやり取りで、朔也は最初苛立ちを感じている。お母さんはそんなことを言わない、という作られた母親へのやるせなさがあるのだけど、最後に母の伝えたかった言葉を聞いたとき、ふと私は、いい言葉でも悪い言葉でも、自分以外の誰かが発した言葉は信じるしかないのだなと思った。本心だと思うか、思わないか。確かめるすべはないんだよな、という当たり前のことを思う。それに、人間は自分で自分のことを裏切ったりもするのに。不確かなものをどう受け取るか。本心だ、と信じられることが愛なのかもしれないと思った。
本作に登場するVF。開発者野崎と、VFの中尾の場面。野崎の娘の存在まで含め、ここだけで一つの作品が作れそうだなと興味深かった。始終落ち着かない朔也と対比するかのように、野崎も中尾も穏やかで、時折欠けるような映像だけが仮想空間の中の彼らが人ではないことを教えてくれる。
私は、野崎が説明する中尾が、今も学習をし続けていることが恐ろしく感じられた。急逝した愛する家族に会いたい一心でVFを作り出したとして、実体のないその人の時間が止まることはないのだ。見た目が変わらなくても、学習の結果変わっても、それは愛した人と同じだろうか。あんなにも会いたかったはずの人が理解できない存在にならないだろうか。
お手伝いをしてくれている、との野崎の紹介に、中尾の家族は今中尾に会いたいと思うのかを考えた。
本物以上のその人、として作られただろうVFの中尾も、野崎のVFも、穏やか過ぎるのが何よりも人ではないように見えた。映画『怒り』であれほどに感情をむき出しにし合った妻夫木聡と綾野剛の、凪の演技は見所の一つだと思う。