20240422 映画『花腐し』&『そこのみにて光り輝く』二本立て上映@キネカ大森
久々に二本立て上映の映画を観て来ました。
『花腐し』は丁度観られるタイミングで行ける劇場がなく、配信でと思って居たところに観られて幸いでした。
『そこのみにて光り輝く』は2014の映画で、公開時に観ていたのですがまさかもう十年経っているとは…時の経つのはあっという間です。
『花腐し』はピンク映画界の監督と脚本家志望の男と、その男たちの間に存在する女優の女、という情報だけ入れててあらすじとか一切知らずに見たのですが、松浦寿樹の世界だな、と。
松浦寿輝は受験の時に評論と随筆で散々苦しめられたので、名前を見るとちょっとドキッとしてしまうのだけど、小説の方で感じる不思議な感覚や人間の湿度みたいなものが感じられる原作をこうして映画にするんだなと思うのでした。原作もまた読み直したい。
冒頭、心中した男と女と、その女の通夜のために、女の郷里へ出向く男、栩谷を綾野剛が演じている。栩谷は廃れ行くピンク映画の映画監督だった。
ぼそぼそと、聞こえないくらいの声で覇気もなく、ここで見る栩谷は好きになれないなぁと思う。帰れと言われるがままに、雪の中を帰っていったかと思えば、今度は男の通夜へ。ここもまた暗い雰囲気が立ち込めているけれど、男は親友で、死んだ女は長らく同棲していた自分の女だというのに栩谷の気持ちは悲しい、とか辛い、とかわかりやすい言葉で言い表せるように見えない。借り物の喪服で丁度いい悲しみ、に見えた。
そんな栩谷が、家賃の交渉ついでに大家に頼まれて出向いた古アパートの一室で、脚本家志望の男、伊関(柄本佑)に出会う。死んだ祥子の最初の男が伊関であり、最後の男(これって微妙だなとも思う)が栩谷であることに二人が会話を重ねながら気づいていくという物語。
モノクロの世界に居る二人が、過去を振り返り、一人の愛した女について語っていく。処女と童貞だったと伊関が語れば、栩谷は初めての男と別れた後にヤリまくった、と聞いていると言う。奔放さと祥子はあまり結びつかず、だからこそ女優として大成しなかったのかとも思わせてくる不器用な女に見えるし、不器用なもの同士で幸せになるのはひどく難しい事に見える。
祥子は二度、その腹に子を宿す。
伊関の産んで欲しいという願いは退けた。栩谷の家族を持ちたくない、という願いの前にその子どもは流れてしまう。
祥子がたまには実家に帰る、と栩谷と暮らすアパートを出ていくとき、この後心中するのだなとわかるのだけど、でも、このとき彼女は帰るつもりはなくても、死なない道があったんじゃないかとも思う。こちらを見ない栩谷に、小さく手を振る姿にはまだ救える余白があるように見えた。それでも彼女は帰って来ない。
女優になる夢を諦めきれない、と愛した男とその子どもを諦めて、その十年後に、夢を諦めてでも愛する男の子を産んで、家族になりたいという願いが叶わないというのはどれだけ哀しいことだろうと思う。子ども、というのは一つの対比であるけれど、愛する人と一緒に幸せになれないと思い詰めてしまったのだろうと思う。過去があるからこそ、自分を責めたのではないだろうか。
栩谷は映画にも祥子にも捨てられた、と溢す。栩谷もまた、自分で二人の在り方を選んだのに。捨てられたと口にするけれど、二人はもう駄目になっていたのだとわかっていたようにも思う。だから死んだ二人を責めることも悲しむこともできないのではないだろうか。
冒頭の栩谷がなんだかちょっと好きになれないな、と思うし、究極のところで情に薄い面も見えるのだけど、映画の中で栩谷は、必ず手酌をする場面で相手に先に注いでやる人だった。鍋もそう。わかりやすく頼りになって、わかりやすく愛情を見せてくれる人ではないけれど、栩谷がいい奴なんだなと思える。そんな栩谷は祥子を愛していたのだと思うし、映画を愛してきたのだと思う。できないことをできない、と言えるのは決して悪いことではないと思う。
伊関と祥子、栩谷と祥子のセックスの場面もはっきりと描かれていて、根の明るいわけではない祥子の、年月を経た奔放さや増した官能がわかりやすく感じられるのだけど、そんな素にはある色気が、女優としての祥子からは感じられない。映画を愛していれば、祥子を自身の作品に出すことはできないのではないかと思う。愛しているからピンク映画には出さなかった、というだけではないと思わせてくるのが栩谷だと思えた。
最後のスナックの場面、まだ栩谷は祥子を愛していたのだと思う。愛していても尚、しっくりこない感じが二人にあって、どこにもやり直せるところなんてなかったんだろうな、という気持ちにもなった。
最初の女、最後の女として語られた祥子と、結局のところ吉岡睦雄演じる桑山が、共に死んで行った。栩谷の元へ祥子を連れて行ったのもこの桑山なのだけど、この時に祥子を見つめるまなざしがどの男より熱っぽく見える。作品が上手くいくかどうかはわからずとも、祥子のためにあて書きをしようともしていた桑山だ。
人はどうして、そんな風に思ってくれる相手を選べないのだろう、とも思うし、好きになってくれたら好きになれる、というほど単純にもできていないことがとても哀しい。