見出し画像

20241103 映画『まる』 三万円と新しい靴

堂本剛の映画単独主演が27年ぶり、というのを聞き、そっか金田一からもうそんなに経ったのか…と月日の経つのを噛みしめつつ、『ファンタスティポ』は単独じゃなかったなと思い出したり。
今年の出演作を一つ一つ追いかけている綾野剛が出ていることもあり、絶対に観たい作品の一つでもあったのだけど、なんというか朝ではなく夜に観たくて、レイトショーで観てきました。


堂本剛演じる沢田は、人気現代芸術家のアシスタントとして生計を立てる無名アーティストで、そのアシスタント職もケガで失い、アルバイトをしている。ある日、部屋の床に居る蟻に導かれるように描いた〇が社会現象を起こすほどの事態になり…というお話。
『バーバー吉野』『めがね』『かもめ食堂』の監督である荻上直子監督が、堂本剛を”自分よりも生きづらそうな人が居る”と言っただけのことはあり、沢田はもちろん、登場人物の多くが生きづらさを抱えてそれでも生きてる姿が描かれている。

沢田をアシスタントとして使い、才能を搾取する芸術家の秋元を吉田鋼太郎。そのアトリエで沢田と同じ仕事に就きながら、いいように使われっぱなしの沢田に苛立つ矢島は吉岡里帆。いかにも面倒くさそうな大家の浜田マリや、怪しさしかないアートディーラー土屋の早乙女太一、画廊のオーナーは小林聡美。突然再会した同級生吉村のおいでやす小田やアトリエのプライド高い後輩戸塚純貴、古道具屋店主の片桐はいり…とすべてがすべて一筋縄ではいかない登場人物のキャスティングが上手いなと思う。
身勝手だったり怒ってたり無気力だったりする中で、良心のように存在するミャンマー人モー役の森崎ウィン、そして多分いちばん面倒くさい隣人横山を綾野剛が演じている。


生きづらさ、を描いた作品って実は結構ある。老いも若きも男も女も生きづらさを挙げていったらキリがないから。ましてや物を作っている人間のそういう葛藤って結構今まで描かれてきたテーマだよなぁ、という先入観も確かにあったのだけど、ちょっと新しいなと思ったのは沢田や横山の年齢だ。
現実の堂本剛も綾野剛も四十代に入り、沢田や横山もそれに近いと思っていいのだと思う。十代や二十代の特にアーティストやクリエイターと言われる人たちの物語は山ほど観て来たけれど、それとは同じにできない。

沢田も横山も、多分物は作っていなそうな吉村も、いい歳なのだ。
社会に出て、成人してから倍くらいの人生を生きて、馬鹿にされたり、理不尽な目に遭ったり、努力が報われたり報われなかったり、散々してきたはずなのだ。
充分に大人で、だからって何もかもを穏やかに受け入れられるほどの年齢でもなくて、気力や体力は気合を入れないとすぐ下り坂に入ってしまうそんな年頃。そんな微妙な、複雑な年頃の沢田を、堂本剛が演じることにより、絶妙に説得力のある人になっていたと思う。

なんせ、こっちは『人間・失格』から堂本剛を観て来たのだ。黒髪短髪の快活な少年は青年になり、ある時から方向性が変わって、いつの間にかお芝居を見ることはほとんどなくなってしまっていたのだけど、やっぱり上手い。
もっとふわっと、夢みたいな感じかな沢田と思って居た予想はいい意味で裏切られ、現状を打破する気もその力もない、でも骨の髄まで芸術家なんだなと思わせてくれる中年の男だった。ガムテすら傾くボロいマンションにぎっしり集められた画材やキャンバス。プライドをへし折られたり、捨てたり、考えないようにしながら、それでも沢田は絵の仕事を続けて来たんだとわかる。それって、簡単なことじゃない。
剛くんが、長い時間をかけて沢田を演じられるようになったんだな、と思えたことが一ファンとして嬉しかったし、なんとなく似たところがある、なんて生易しい演じ方じゃないところに震えた。おっとりしているように見えて、沢田は流されやすくもなんともない。言語化できない想いを胸どころか全身に蓄えているような男だと思った。

そんな沢田の隣人横山は、漫画家になりたいという想いを抱きながら、配達員の仕事で日々口に糊している。壁越しにも困らされるほどの雄叫びをあげながら、壁に穴まで開けて来るし、ウザ絡みをしてくるわ、最後には勝手に人の名を騙り出したりもする。集るかと思えば、一緒にご飯を食べたがる。ちぐはぐで、清潔感に欠けるファッションも相俟って、やべー奴だ。綾野剛もまた、この出会ったら目を逸らしたくなるヤバイ男、の具現化が上手い。上手すぎて、今すぐ伊吹や狂児を返して欲しいと思うくらい、横山はヤバイ。
ヤバい奴なのに、意外だったのが2割の働かない蟻にはなりたくない、という心情だった。人の役に、社会の役に立つ8割で居たいという切実な思いを抱え、でも横山も現状を打破できるものは何もないんだと思う。ラーメン屋で激高し、叱られるとすぐに謝る気の小ささや、沢田に勝手なことを言うけれど、でも一度でも話した隣人のことが心配だったりもするのだ。
横山、多分、根はちゃんとしたやつなんだと思う。見て、と差し出した作品をきちんと製本していたり、物作ってる癖に、自分の好きな事をしたいより、社会の一員で居たい気持ちの方が勝つのだから。若い男の子なら、どこからでもやり直せたのかもしれない。でも、沢田や横山の年齢で方向転換をするのって怖い。今のままも怖いのに、変えるのも同じくらい怖い。横山は沢田と違い言葉にできる人だったけれど、それでも言い足りないほどの気持ちを、横山が全身で伝えてくれていたと思う。

そして、モー。ミャンマー人のアルバイト店員である彼は、嫌な客に片言の日本語を笑われたり、沢田がどれだけ暗く、隈を増やしていても明るく接してくれる。流石仏教の国のひとだな、とでも言うような、落ち着いて、沢田を諭してくれるような彼が、最後に本音を聞かせてくれる。実はそれがあって、私はこの映画を好きだなと思えた。モーが単なる良心で終わるのなら、それってちょっとズルいなと思っていたので、彼もまた言ってもしょうがないこと、をちゃんと思うんだ、ということにホッとしてしまった。


沢田、横山、そしてモー。すべてを受け流す沢田にも怒る瞬間があり、怒れる横山にも、他者を気遣える場面がある。明るく前向きなモーにも諦めの気持ちがあった。生きづらくてもなんとか、やっていくしかないんだよ人生、って沢田や横山がもう若造じゃないからこそ、伝えてくれる気がした。

そして先生。江本明演じる先生だけはほんと楽に見えました。年齢を重ねるってしんどいから出られるってことなのかもしれませんね。ウィキで調べます。



映画を観た直後、これは物を作っている人間にはしんどい作品だろうなぁ…と思ったのだけど、一晩経って二晩経って、このしんどさ、物を作ることに閉じたものじゃないと思う。一つのわかりやすさとして、沢田は現代美術のアーティストであったけれど。

ありたい自分やなりたい自分。周りの環境に求められている自分。それが重なる人も重ならない人も居ると思う。重ならないことを誤差や、そういうものだと思える人も居れば、わずかな差分も許せない人や、全く重ならない人もいるだろう。
物を作ってようが会社員だろうが公務員だろうが主婦でもなんでも、自分と他者の希望や願望と現実が噛み合うのは幸せなんだと思う。対してその逆は、お金や名声でも埋まらない苦しみがあるのかもしれない。
モーを馬鹿にしていた客も、きっとどこかで誰かに馬鹿にされているのだろう。出会い頭に沢田を見下して来た吉村もまたきっとそうだ。上手くいかない人生はそこら中に転がっている。

とはいえ、好きなことだけを続けるのもしんどいのだけど。きっとみんな、幸せだし、不幸だし、しんどいし、楽しい。怒ってるし泣いてるし喜んでる。


せっかく電球を替えたのにあの傾いた部屋を沢田も横山も、大家も出ていく。横山はきっと友達だと思ってるはずだから、年賀状でも送ってくるかもしれないし、沢田も貰ったら返さずにはいられなさそうなそんな気がしたり。
さわだ、は謎のまま数枚の作品がこれからもどこかで称賛されたり、時になんでこんなもの、と言われたりするかもしれない。そのいずれも沢田のあずかり知らぬところでなんだろうなと思う。

三万円と新しい靴が沢田の得た対価だ。新しい靴でもチャリンコはこける。でもきっと、転んでもまた起き上がって沢田は筆を持つのだろう。堂本剛がもがきながら、何かを続けてきたのと同じように。『まる』という作品も、沢田という役柄もしんどい。めっちゃしんどい。でも、四十代を迎えた堂本剛が、この役をこんなにも優しく演じられたことが嬉しい。沢田、角の取れたまあるい声で、いい歳の重ね方だなって思った。何度も、すぐに見返せるような作品ではないのだけど、オーコメもまた聴きながら観られたらいいなと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集