予感
二十歳の夏、マラケシュ中央駅。
僕はホームの隅に置かれた石造りのベンチに腰かけて、カサブランカ行きの列車を待っていた。
発車ベルの鈍い音がホームに響く。
目の前に止まっている行先不明の列車が今にも出発しようとしていた。
「この列車に乗り込んだらどこに辿り着けるのだろう」
ふと、そんな考えが脳裏をかすめた。
根拠は全くないが、どこか素晴らしい場所に辿り着けるような予感がしたのだ。
それはもう反射的としか言いようがない。
気づくと僕は、切符も持たず、その列車に飛び乗っていた。
踊るように脈打つ鼓動がまだ耳の奥底から響いている。
乗客はわずか。列車がゆっくりと動き出した。
乗り込んでしまったのだから仕方がない。
そう自分に言い聞かせる。
見渡す限りの荒野を走るこの列車は一体どこに向かうのか。
今となっては、この予感に身を委ねるしかないのだ。
車内の蒸した空気を入れ替えようと、窓を少し開けてみる。
乾いた風が吹き込んできた。
その風には、どことなく、潮の香りが混じっているような気がした。
…
どのくらい走っただろうか。
窓から吹き込む風に、今度は確かに潮の香りを感じる。
なんだか気分が落ち着かなくて深呼吸をする。
抜けるような空を窓越しに眺めていると、ふいにフランスの古い詩の一節が思い浮かんだ。
“Le vent se leve, il faut tenter de vivre”
「風が立っている、僕は生きなければならない」
目を閉じて想いをくゆらせる。
あの日の予感が僕をどこに運ぶのかは分からない。
不安だってもちろんある。
だけど、いまも胸の奥にたしかに感じるこの予感を切符に代えて、
風に乗り、軽やかに、しなやかに
いのちある限りどこまでも走り続けようじゃないか。
26歳。
人生が旅なのだとしたら、旅はまだ始まったばかりだ。
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