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人間が社会に対して責任を負うのはいつからか?〜映画『縞模様のパジャマの少年』〜
ラストが陰鬱すぎるという呼び声の高い傑作、『縞模様のパジャマの少年』。どうしても観てみたくてアマプラでレンタルした。
肝心な部分が画面に映らないことが多く、グロテスクで目を逸らしてしまう、なんてことはない。しかし、それで逆に想像力が働く作品だった。観て良かった。
本作について感じたことを書いてみる。
※ネタバレを含みます。
あらすじ
ナチス将校である父の昇進に伴って、ベルリンから田舎に引っ越すことになった8歳のお坊ちゃまブルーノ。
学校に通えず友達もいないブルーノは、新居のまわりを「探検」することにした。
すると、有刺鉄線に囲われた「農場」で、「縞模様のパジャマ」を着た人々が暮らしているのを認める。
そのなかにいた同い年の少年シュムールと、何も知らずに友情を育むが...。
私たちはいつから物事に責任を持つのか?
ブルーノもシュムールも、まだ社会のことを何も知らない8歳の子どもだった。この悲劇について、「彼らは全く悪いことをしていないのに、大人の起こした戦争の犠牲になった」という見方にはみな同意するだろう。
姉のグレーテルは、家庭教師の教えによってナチの思想に囚われていく。この変化もまた、大人の都合によって引き起こされたものである。
では、大人がみな悪であったのか。
残虐な行為を嫌う母エルサが、まさに「軍人」である夫の俸給によって豊かに生活している姿はとてつもない皮肉である。このことについては、夫の職業についての解像度があまりにも低く無知な妻であるという見方を避けることはできない。
しかし、エルサが「軍人」の仕事の真実に気付いた時には、既に反抗するための動きが取れない状態に陥っている。
戦時下で経済基盤として家庭を支える夫と離婚するのは現実的とは言えない。また、僻地で外部との接触がない新居は、言わば逃れられない鳥籠である。
もはや立ち向かう力を奪われている彼女は、罪悪感を抱えて徐々に不安定な精神状態に陥いる。
では、父親が悪だったのか。
父親でないなら、支持した国民が悪だったのか。
彼らもまた「洗脳された」被害者だと言えるだろうか。
全ての物事で被害者となり加害者となる
この映画を最後まで見終わった時、私たちはブルーノの発したフレーズに言葉を失う。
「大人なのにやりたいことも選べないの。変だよね。」
得体の知れない大きな力の中で「ただ従う」ことしかできない無力感。たったひとりではどうにも変えられない、そんなシチュエーションはどれほど歳を重ねても、どれほど偉くなってもやってくる。
組織や社会や生態系など、あらゆるシステムの中で相互に影響を及ぼし合っている私たち。
誰しもが自分以外の何かに依存して生きているからこそ、システムに飲み込まれていくことは避けられない。
そうして私たちが起こす全ての行動は多方面に影響を及ぼし、しかも一長一短である。誰もが被害者となりうるし、同時に加害者でもある。
特定の誰、ということではなく、私たちはこの世に産み落とされた瞬間から、ひとしく何かを背負って生きているとしか言いようがない。
ホロコーストという特異な事象を扱う物語であるように見えて、実はかなり普遍的な意味合いを持つ作品だった。