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一緒に読むと倍面白い『傲慢と善良』/『僕の狂ったフェミ彼女』

60万部を超える大ヒット作品、『傲慢と善良』(辻村深月)。もう読んだという方も多いと思います。現代の既成概念の百科事典かと思うくらい、日常が掘り下げられている作品です。
この小説、実は『僕の狂ったフェミ彼女』とペアリングすると、とっても面白いことを発見しました。

『傲慢と善良』が刺さる人にも、刺さらない人にも一読してほしい『フェミ彼女』

『傲慢と善良』あらすじ

婚約者・坂庭真実が姿を消した。その居場所を探すため、西澤架は、彼女の「過去」と向き合うことになる。「恋愛だけでなく生きていくうえでのあらゆる悩みに答えてくれる物語」と読者から圧倒的な支持を得た作品が遂に文庫化。

朝日新聞出版

『傲慢と善良』は、マッチングアプリで結婚を前提に付き合い始めた男女が主人公のお話です。周りの友人も結婚して親もソワソワし始めた30代の二人が出会い、半同棲状態で交際を続けていた最中に、女性の方の真実が失踪してしまいます。

真実(まみ)は契約社員で、架(かける)は自分の会社を持つ社長。あまり目立つ方ではないタイプの真実に対して、学生時代からモテていた架ですが、二人とも結婚相手を「選ぶ」側の傲慢さを無意識のうちに抱いています。

結婚を考えるタイミング=「弱い女性を守らなければ」という脊髄反射?

順調に交際を重ねながらも、結婚まで踏み切れずにいた架。それを感じ取りながら、どうしても結婚まで持っていきたい真実ですが、引っ込み思案な彼女には逆プロポーズはできない様子。
そこで真実はストーカー被害を自作自演します。

その時に——、決意した。
この子と結婚しよう、と。
このまま、あの環境にこの子を放っておくことなどできない。一緒に住んで、守らなければダメだ、と。

『傲慢と善良』

そして架は真実を自宅に迎え、半同棲することに。
引用部分だけを読むと、後半はまるで小学生の子供を気遣う親のようではないかと感じます。真実は、そもそも親と共依存的な関係で生きてきたため、恋人に結婚を迫る際にも自分を弱い存在として見せて、庇護欲をかきたてることで相手の気を引こうとしたのです。
ただ自分の保護者が親から恋人(結婚相手)に変わっただけという皮肉に、この時点では真実自身も気がついていなかったでしょう。

「女性だから守ってもらう」という思考、そしてそれを結婚を迫る道具に使うことへの真実の幼稚さが非常に悲しく、皮肉なシーンでした。

作中で何度も他の登場人物から指摘されるように、真実は親や世間体を気にするあまり、自分の主体性が薄れてしまっています。
そうした女性を保護してやらねばと思う男性、あるいはそのような女性自身が、さらに選択を狭め、苦しいものにしていきます。

「三十にもなれば仕事も安定し、趣味や交友関係もそこそこ固まって、女性も男性も生活がそれなりに自分にとって心地いいものになりますから。けれど、そのまま、変わらないことを選択する勇気もない。婚活をしない、独身でいる、ということを選ぶ意思さえないんです」

『傲慢と善良』

この部分は、主人公二人を端的に言い表していると感じました。
独身を選ぶ意思、言い換えれば勇気がないから結婚相手を探す。
そして結婚相手は自分に見合った人でないといけないという、傲慢な考えです。けれども自分が同じような状況になったとしたら、笑い飛ばすのは難しいと思います。

一方、『僕の狂ったフェミ彼女』は、再会した初恋の彼女がフェミズム運動に参加するようになっていた、というところから始まるお話です。

「どうせ男の言う結婚なんて、ママにやってもらってたことを妻にやってもらうようになるだけでしょ!」

『僕の狂ったフェミ彼女』

「男」の部分を「女」に、「妻」の部分を「夫」に言い換えて考えてみると、まるっきり『傲慢と善良』の真実への指摘に思えてきます。
男だからとか、女だからではなくて、明確な意思がないまま惰性で他者を自分の人生に巻き込むことへの警句と言えるのでしょう。

婚活を、他者を舐めるな

その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、”ピンとこない”と言います。——私の価値はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段と釣り合わない」

「ささやかな幸せを望むだけ、と言いながら、皆さん、ご自分につけていらっしゃる値段は相当お高いですよ…」

『傲慢と善良』

この部分が本書で語られる人の「傲慢」さの確信だと思います。
一方で、「善良」さとは、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて”自分がない"ということ。特に、結婚となると、家同士のものと言われるように親世代が介入してくる場面も多くなります。
自分の一生を決定すると言っても過言ではない結婚すら、善良さでもって自分で決められない、結婚しないことさえ自分では選べないという状況は、『傲慢と善良』では、家父長制を補強している真実の母親によって加速させられています。

『フェミ彼女』では、「僕」の父親は、独身の「僕」にも彼女がいると、親戚中に嘘をついています。結局、彼女が大好きな「僕」は結婚をしたくないという明確な意思を持つ「彼女」と別れてしまいますが、もし、「僕」の中の善良さで、親や社会に流されることがなければ、二人はまだ一緒にいられたと思わずにはいられません。

「スンジュンだからじゃなくて、私は非婚主義者なので」
出た、「非婚」。
「じゃあ、なんで付き合っているんですか?」
「好きだからです」
「無責任じゃないですか?」
「私は最初に話してます。選択するのはスンジュンですよ」

『僕の狂ったフェミ彼女』

「非婚」(=結婚しないという選択)を公言している「彼女」に対して、自分の意見を述べられたなかった「僕」(スンジュン)は、周りの空気を読んでいるように見えますが、やはり幼稚に思えます。理由もなく、ただ思考停止の末に結婚を選択しようとしている「僕」は、「彼女」に対して語る言葉を持ちません。対話が成立しない彼らには、破局の道しか残されていませんでした。

相手を「彼氏」「彼女」「結婚相手」として見るのではなく、一人の
他者として尊重すること。それがどれほど難しいことなのかがよく表現されている場面だと思いました。好きだけど、好きだという気持ちだけで結婚できないと「彼女」が言うのは、他人同士が心地よく暮らすことは非常に労力が必要であり、困難だと知っているからでしょう。

「彼女」はフェミニストであり、フェミニズムについて深く理解してくれるパートナーにまだ出会えていません。あろうことか「僕」はフェミニズムを鼻で笑ってさえいます。「彼女」の場合は、「僕」との価値観の違いは明確ですが、どのような組み合わせであっても、他者同士とは、「僕」と「彼女」と同様に、異なる価値観、モラルのもとで生きています。
「彼女」は少なくともそれをフェミニズム活動を通じて感じとり、結婚にも他者にも真摯であるために、「非婚」を選択しているのかなと思いました。

縁結びや結婚の相談は情緒が重視されがちだが、この人は何もそれを善意だけでやっているわけではない。プロとしてのプライドがそこから感じられた。
身が竦む。彼女はたぶん、こう言いたいのだ。婚活を舐めるな、と。

『傲慢と善良』

『傲慢と善良』の前半で、架が結婚相談所を営む婦人に会いに行った時の一節です。
「婚活を舐めるな」とはどういうことか。言い換えれば、「他者を舐めるな」ということだと思うのです。婚活の厳しさ、結婚の厳しさとは、自分の傲慢さや意志の弱さと正面から向き合う難しさでもあると感じました。

世の中と自分、どちらを変えたいか

物語全体を通じて、良くも悪くも真実と架の考え方はあまり変わりません。ただ、二人はお互いの思っていることを少しずつ素直に開示し、納得して結婚に踏み切ります。

今も、何が正しいのかなんてわからない。
自分が間違っていると言われたら、そうなのかもしれない。
けれど、今は、こうも思う。
親に頼ってきた娘の自立が、次の依存先を探すことなんだとしても。
親が、この結婚を焦るのは、自分の代わりの次の依存先を見つけてやろうとしている行為なんだとしても。
それの何がいけないのか、と開き直れるくらいには、気持ちが強くなった。
間違っていると言われてもいい。
構わない。

『傲慢と善良』

真実は前進するために、周りの状況を無視し、自分の思う方向のみをまっすぐに見つめること選びました。
結婚して初めて一人前になるというような両親の価値観や、見合い相手の男性の車を「女の子が乗るような軽自動車」として見下す自分、男のくせに話を膨らませてくれない、と不満に思う自分の傲慢さも、すべてそのままに、力強い一歩を踏み出すのです。ある意味で、それが彼女の生き方であり、ある程度歳を重ねてきた彼女はその生き方を貫くしかないという覚悟を決めるしかないのだと思います。

すごく腹が立った。こんなに良い彼氏の僕が、こんなに心から君が好きで、こんなに頑張ってるのに、君も明らかに僕が好きなのに、どうして変わってくれないんだ?
人をおかしくさせるにもほどがある。
「闘士にでもなったって勘違いしてるみたいだけど、世の中がそんなに簡単に変わると思ってんのか?変わんないんだよ!」
「少なくとも私は変わるはず」
「ただ結婚したいほど好きじゃないだけなんじゃないの?」
「結婚を諦めたんじゃなくて、人生を選択したの!」

『僕の狂ったフェミ彼女』

『フェミ彼女』で語られる「世の中」とは、フェミニズムを理解しようとしない「僕」であり、現実社会であり、フェミニストになる前の「彼女」です。
「彼女」はフェミニズムを体現するために、見た目も変わりアクティビストになりました。自分以外の他者へ、自分が過ごしやすい形に変化することを求めるのではなく、自分が率先して変化することを選んだのです。

人は変わらない強さと、変わる強さをもっていると思います。結婚と恋愛という非常に個人的な問題に関わった時、幅広い意味で他者と共生するために、あなたはどちらの道を選ぶのか。
対照的な小説2作を通じて、考えを揺さぶられてみてはいかがでしょうか。

『僕の狂ったフェミ彼女』あらすじ

振られた彼女と4年ぶりに再会すると、彼女はフェミニストになっていた! 
そんな彼女を見つめる「僕」の視点から描かれたフェミニズム小説。
2人の恋(?)の駆け引きや日常の自然な会話にグイグイ惹き込まれていくと、気づかない自分、気づくことができない自分、に「気づく」。
きっと私自身が「僕」と同じで、世の中には「僕」がいっぱいいるのだろうと思う。
映画化、ドラマ化も決定しているという話題作をいち早く読める幸せをぜひ。

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