存在すること − 責任
前回は「存在を実感する」ことについて書いてみた。
何事もまず存在しなければ始まらないよね。たとえびっくりするような高度の文明を持つ宇宙人が現れて偉そうにしても、存在したから出現できるんだ。しかし存在するということだけでは何の意味もない。世界は存在する個々——原子のような微細なものから始まって、人間、星辰に至るまで——が互いに作用し合って活動しているって、この前は考えたんだった。この前提が正しいかどうかわからないけれど、何かきっかけがないと、先に進めないから、まあこれで行ってみよう。そしたら、いろんなものがつながって現れて来ると思うからね。
ところで相互作用って云うのは、物質だけのものじゃないって、すぐ気づくよね。笑いのような表情、振り向きのような仕種、口から出る言葉、書かれた文章、捨て猫のある風景、……その他考えればきりがないけれど……とにかく、作用でできたものは受け手に影響を与えるんだ。受け手の感受性にも依るかも知れないけれど、まあ少なくとも潜在意識に残ると考えてもいいんじゃないかな。
その受け手の反応がまた元の作用主に反響されていくってのも皆が日常経験していることなんだ。よく、人間は人に生かされているって言われる。ということは、自分もまた他人を生かしているってことになるよね。
そうであれば、個々の行動、反応、思いが相手に、ひいては世界全体に影響するなら、つまり、個々(一人ひとり)が今この瞬間この世界を創っているのだと考えれば、個々の行動、反応、思いの責任は重大じゃない、って話なんだ。
ちょっと大げさ過ぎないって言われそうだね。うん、もちろんそんなことを真剣にいつもいつも考えていたら、果のない迷宮に落ち込んでしまう。だから、人生の節目や悩んだ時なんかに振り返って、人はときどき感じるんだろうって。
今日はここまで。抽象的な話ばかりで退屈だね。