存在すること − 実感
確か小学6年生の頃だったと思うね、あまり記憶は確かではないんだけれども。不思議なというより畏怖の念を起こすような体験をしたんだ。といって特別な場所ではなかったよ。自分の家の中、奥の六畳の間に、何故か一人いたんだ。ちょっと薄暗い部屋で、南側の障子から柔らかい明かりが入ってくる。そんな時、ふと感じた、なぜ僕はここに居るのだろうか、なぜ僕はこの場所、この地上、この宇宙に存在しているのだろうか、と。自分だけでなく家族も友達も、ああ、この存在のなかにあるんだ。そして、「存在している僕」が心のなかで「存在」について考えている、果てしない謎と怖さ……。怖ろしいくらい重くのしかかる感じだったね。何処かへ逃げたくなって部屋の中でちょっと這い回ったりしてたかも知れない。
普通なら「存在って不思議だね」で終わるところだけれど、そんな深い感覚を覚えるのはちょっと精神的な病を持っているのかと言われるかも知れない。まあ、自分ではわからない。しかしだ、存在しているって云うことをじっくり考えてご覧よ、実感がないとしても、畏怖すべきことじゃないかなあ。
その後そんな感覚は2,3回あったかも知れないな。でもそんなに重いものではなく、何となくこの世界を離れているような感覚…まあ言葉で表現できないけれど。でも、今後はもう感じないように思うよ。
もう感じない…というのはね、数年前からこの体験について考えだしたからなんだ。考えると、感覚が鈍るのかな。
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もしこの世界(宇宙)が一様なら、それは存在しないことと同等だと思う。だから、存在が存在するために、なんか動的な関係として「個」と「関係性」が必要になるんじゃないかな。物理学者は、この世界は素粒子とかクォークとかと云う微細なものからできていて、互いに引き合ったり退け合ったり、入れ替わったり、とにかく関係し合い作用し合っていると言うよね。存在することの本質とは、「個」同士の相互作用という活動と考えてよいと思う。こういう活動の性質として、場面とか環境と云う場景が生じ、多様化していくと思うんだ。
こう考えると、どういう世界を創るのかと云う「責任」を「個々」が負うていることになるよね。
存在というテーマはとてつもなく大きい。一人の人間が取り扱うには大き過ぎる。というか、人類がこの問題に何らかの答えを出すこともできないだろうと思う。それでも、まあ少し気になることなので、気づいたことがあれば少しずつ書いていきたい。
今日はここまで。読んでいただき、どうもありがとう。