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光る玉水

Noteを開いた時、「あなたへのおすすめ」記事があり、たまたま“うりぼう”さんの記事を読んでみました。

そこに母子草に付いた美しい水滴の写真があり気に入ったので、コメントしようとだらだら(妄想しながら)書いていると、少し長くなり過ぎたので(妄想を膨らませて)、ここに記します。

***

うりぼうさん、はじめまして…。
水滴の写真、美しいですね。
よく見ていると、何だかどこかで見たような気がします。
長く生きてきたので、多分どこかでよく似たものを見たのでしょう。
その時は、何気なく見ていたんでしょうけれど、
思い出に残っていたのですね。
多分何十年も前の記憶です。
そういうのが何かのきっかけで、よみがえって来ることがあります。

でも昔の記憶はおぼろなので、間違っていることもよくあります。
間違っていたと気づくのはいい方かも……
気づかなければ、その記憶は正しいことになる……というか
古い記憶(思い出)というものは「事実」かどうかより
何か「真実」を伝えているのかもしれません。
いやいや、そんな真実と云うかっこいいものでなく、むしろ
こうあってほしいという願望?希望?それとも、憧れ?
なのでしょう。
わたしが覚えている水滴の美しさは
母子草に付いた水滴ではないかも知れません。
記憶は曖昧でも
やっぱりその写真がわたしの記憶のどこかを呼び覚ましたのです。

それに水滴〜玉水〜から思い出す景色があります(思い出しました)。
大学生のときでした。電車に乗って座席に座りふと窓の外を見ると
近くの一本の木の枝枝に玉水がいっぱい付いて
まるで宝石のように光っていたのです。
今もその印象はもっている(つもり)
写真に撮りたかったほどです。
他の乗客もその玉水の木を見たはずです。乗客は少なかったけれど、
そんなに感動したような様子はしていなかったようですね。
もっとも、わたし自身表から見てそんなに感動した顔をしていなかったでしょう。

そのあと、枝に付いた玉水を何度も見たと思うけれど
あれほど美しいものを見たことはありません。
光の加減や水滴の大きさとか数が最適な条件だったから
あんなに美しかったのでしょうか?それとも
物理的にはどれも同じような水滴なのでしょうが
ただ、最初の印象がそれほど強かったからでしょうか。
でもあの枝枝いっぱいに光る玉水を
もう一度見てみたいという思いはあります。
でも今見たとしても、もうそんな感動を覚える歳ではないかも知れません。
そんな玉水に心を吸われる青春は過ぎ去ったかも知れません。

事実は単に事実でそんなものは何も面白くない〜
とは、紫式部が源氏物語に書いています。物語(今で言う「小説」)にこそ真実があるのだと……
「事実は小説より奇なり」と人は言いますが
紫式部に言わせると
「小説は事実より真なり」です。
今思うと、あのときの木の枝枝の玉水は単なる事実の印象というより
わたしの人生という一編の物語(メルヒェン)の中の一場面になっているのかも知れませんね。
人生にはいろんな側面がありますし、また
生きている中で大きな節目もあるでしょうが、日常生活の中のほんの些細な出来事でさえ、それが積み重なってわたしと云うものが出来上がっています。
大袈裟に言うと、人の歴史という事実一つ一つに、印象という重みが掛け合わされて、それぞれの心や生活が形作らていくとも言えますか…。

山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えたえだえかかる雪の玉水

新古今和歌集の初めの方に出ている式子内しょくしない親王の歌です。
清さ、冷たさ、静かな雪解け、春の訪れ〜わたしの好きな歌です。

さて、“うりぼう”さんの記事を肴にして、とりとめのない書き物になりました。
最後になりましたが、“うりぼう”さん、ありがとうございました。

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