最近AI(人工知能)とくに会話型AIが話題になってきています。Microsoftの検索サイトBingにも取り入れられています。まだまだ初歩的な技術でしょうし、得られた回答にも注意して考慮が必要ですが、使い方次第で力強い助手になるでしょう。
今回はキリスト教の基本教義についてBingでチャットしてみました。
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【問い1】キリスト教のイエスの死の意味について尋ねたいと思います。
イエスの死は原罪に対する償いと言われていますが、イエス自身そのことを言っているのでしょうか。
【問い2】この聖書の記事は暗示的に感じます。もっとはっきりと人類の罪の償いのために死んだと書いてある聖書の個所はありますか。パウロが語っていたと思いますけれど…。
【問い3】イエスと弟子たちは主の死をどう捉えていたかを示す聖書の個所はありますか。(ちょっとタイプミス「イエスと」でなく「イエスの」)
【問い4】弟子たちはイエスの死の意味、つまり贖罪ということに気付いた記載は聖書にありますか。
【問い5】最初のうちは弟子たちも動揺していてイエスの死の意味を理解できなかったようですが、どういうことから贖罪の意味に気づいたのでしょうか。
【問い6】当時のユダヤ教徒たちはイエスに反抗的でしたが、ユダヤ教には贖罪という思想はありますか。
以上、無難な回答でした。深く知りたい方には不十分でしょうね。質問は抽象的にならず、具体的に聖書の記述を求めるのがよいと思います。
ここで、Bingのチャット画面をよく見ると、「会話スタイル」というものがありました。上の会話は「バランス」モードでした。
「厳密」モードというのもあったのでチャットしてみると、検索結果に明確な情報がありませんでしたとかの回答もありました。しかし長くなるのでここでは省略します。
もう一つの会話スタイル「創造的」モードがありますので、それで始めてみましょう。
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【問い1】キリスト教のイエスの死の意味について尋ねたいと思います。 イエスの死は原罪に対する償いと言われていますが、イエス自身そのことを言っていたのでしょうか。
【問い2】様々な見解はあるでしょうが、イエスの死によって人類の罪が贖われたというのはキリスト教の基本教義に思います。そうであれば、聖書にも記述があるはずでしょう。聖書のどの箇所がそれ(贖罪)を明らかにしていますか。
【問い3】イエスの死、復活、昇天のあと、弟子たちは布教を開始しますが、その時このイエスの贖罪という教えはあったのでしょうか。
あちこちからの引用なのでしょうが、なかなか詳しい回答になっていると思います。宗派によって考え方が微妙に異なるので正しい解答はないのでしょう。AIはそこらへんを鑑みながら回答に苦労しているようです。聖書を誤りなき神の言葉とみる福音派からすれば、解釈が一貫していないとか言われるのには満足しないでしょう。しかしなるべく色々な見解を紹介しようと試みているように思えます。
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人間は歴史の中にあります。だからその思想や活動も歴史の中にあります。歴史の中にあると言うのは、文化・伝統が形作られるということです。
イエスの教えもパウロ等によって体系化され、贖罪という概念ができたのではないかと、わたしは思います(個人的見解)。もちろんその概念・思想の背景となるものはあったのでしょうが…。
このような体系化は仏教なども同様でしょう。
宗教というものを単なる道徳か風習文化のように考える人もいるでしょう。まったく無関心の人や、必要としない人もいるでしょう。また宗教は阿片であると見る人もいます。
必要としない人はある意味幸せだと思う、自分で何もかも解決して(解決できている)いるのだから。
しかし人間はたいてい何かしら悩みや悲しみや弱さを持っています。そして、解決を求めまた悩む。探し求める、あるいは気がつく。それが宗教であろうと哲学であろうと、人の情けであろうと、風景、歌、スポーツ、漫画、日常の一瞬であろうと問題ではない。安息の一時、心の自由、喜び、結びつき、美、聖さ……そこに本当の救い、消えることのない救い、悩み悲しみ弱さを持った人間のままで救われて行く自分を見つける……これが本来の宗教ではないでしょうか。
結局宗教とは「いかに生きるか」を求めるものであって、教義を修めたからそれで終わりではないということです。
仏教では、「空を修学して空をもって証となさず」と言います。
【いきなり「空」とか言ってもわからない方もおられると思いますので、簡単に説明すると、空とは何ものにも執着しないということです。つまり無碍自在(妨げなく自由)の心持ちです。例えば、善をなすのも無為自然に行われる。誰かに命令されてやるでもない、損得勘定でもない、義務でもない、良心に動かされてという窮屈さもない。】
固定観念的な教義的言葉にとらわれず、現実の生活のなかに生きる喜び、生きる美しさ、聖さ、深さを求めて、人間性を完成して行きたいものです。こうして自己だけでなく周囲の環境とも調和協調して平和を築き上げるのが理想なのでしょう。
その目指すところがあれば、宗教(狭い意味の)だけにとらわれる必要がありません。
おまけ