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大内氏實録・現代日本語訳その4 - 883文字
原文
系圖義長を世次に加へ。諸軍記等。義長長府に自殺して。大内氏滅亡とするは非なり。抑義長義隆の外甥。且猶子にして。義隆の薨後大内氏を襲ぐといへ共。其實は。陶隆房の反せんとするに當り。密使を遣はして意哀を告くるに。名義を省みず。たてちに之に與し。其兄大友義鎭の訓誨を用いず。ただ國土を貪り。榮華を戀ひて。速に志を得んを望む。この時。骨肉の親。父子の義。既に滅絶するのみならず。之に與するの一言。隆房が反を促がして。義隆父子の命を縮めるなり。其罪責豈隆房の下にあらんや。是我舊藩祖毛利元就卿父子の。陶賊を。厳島に戮し。長驅して防府入り。終に且山の結局に及べる所以なり。もし義長に罪責なくは。且山の結局。義兵と云ふべからず。これも亦國土を貪る舉のみ。いま漢書王莽傳に準じ。義長を降し叛逆傳となし以て。討賊の義を厳にす。
日本語訳
系図に義長を世継ぎとして加えることについて、諸々の軍記などでは、義長が長府で自殺し、それによって大内氏が滅亡したとしているが、これは正しくない。そもそも義長は義隆の甥であり、また養子でもあって、義隆の死後に大内氏を継いだとはいえ、実際には、陶隆房が反乱を起こそうとした際、密使を送って同情を求められた時に、名分や道義を顧みず、すぐさまこれに加担した。兄である大友義鎮の諫めも聞き入れず、ただ領土を欲しがり、権勢を求めて、早く野望を達成しようとした。
このとき、骨肉の親族関係や、父子の道理が既に失われただけでなく、陶隆房に加担するという一言が、隆房の反乱を促進し、義隆父子の命を縮めることとなった。その罪の重さは、むしろ隆房以上ともいえるのではないか。これこそが、われらが旧藩の祖である毛利元就公父子が、陶の反逆者たちを厳島で討ち取り、進軍して防府に入り、ついには且山での決着に至った理由である。
もし義長に罪がないのであれば、且山での決着は義のための戦いとは呼べず、これもまた単なる領土欲しさの行為に過ぎない。今、『漢書』の王莽伝に倣い、義長を反逆者として扱い、それによって賊を討つことの正当性を明確にするのである。