【SS】この愛は透き通ってる(2011/05/25)
海は広くて大きくて、こんなにも青く輝き、それでいて深みのある色なのに……手にとると、無色透明に広がって、瞬く間にこの指をすり抜ける。
そこに確かに残るのは、潮の香りと湿り気だけ――それもスグに消えてしまう。
まるであの人みたいだと思った。わたしの前に存在しているのに、つかみどころの無いあの人……
真っ直ぐで、純粋で、みんなに愛されて、頼りにされて……普段ちっともそんな素振りを見せない、冗談ばかりの明るい人なのに、その中に秘められた牙は鋭い。
人の上に立つ資質や才能、誰にも負けない強い信念……そういうのを持ち合わせた、誰もが一度会ったら忘れられないような人だった。
でも、儚くもあった――
本当は甘えたがり屋で、淋しがり屋で、色んな悩みを一人で抱えてて、立ち塞がる変えられぬ運命に苦しんでいた。
わたしは彼になにができるのか、なにがしたいのか、なにを望まれているのか……そんな事ばかりを毎日、毎日……飽きずに考え続けてて、でも解決する術を見いだすことも、気の利いた話をすることもできず、大した役割も仕事も果たせないまま、ただ毎日、側にいただけ。
恩返しも、できなかったな――
どんなことがあっても、どんな姿になっても、わたしだけは彼の側を離れないと誓った。寂しがり屋の彼だから……だけど、そんなことで、彼の終生が幸せだったとは思えない。
本当はもっと、したい事や、やって欲しいことがあったはず。言いたいことがあったはず。そんな一つ一つを丁寧に汲み取ることもできずに、ただ、隣にいるだけなんて……〝役立たず〟以外の何ものでも無かったと思う。
「そんなことはない」「彼は幸せだったはずだ」と、そう言ってくれる人もいるけれど、その人達は優しい人だから、わたしを不憫に思ってそう言って慰めてくれているのだと思う。
わたしが知りたいのは彼の本心なのに……哀れみの言葉じゃない。取り繕った真実はいらない。
こんなにも「後悔」が渦巻いているというのに、わたしの心は、波風一つ立っていないこの海のように穏やかだった。悔やんでいるのに、やり直したいとは思わない。
――どうして?
あの人は精一杯、力の限りに生きていた。
志半ばに朽ちて無念だと言う人が多い中で、わたしは……「無念」の意味が分からなかった。受け止めることができなかった。
彼が何もできなかったみたいに聞こえたから……
確かにもっと、長く生きていて欲しかった。
彼が作り出すものや、導いた先にある世界を一緒に見たかった。彼だって、もっともっと、やりたいことがあったと思う。だけど……身勝手なわたしは、今とても満足している。
それを彼が知ったら「オレの身にもなってみろ」と、怒られそうだけど……
彼が残したものが、沢山……同志の中に、故郷に、日本に、そしてわたしの中に、根付いてる。爪痕でも引っ掻き傷でも、色んな人の中に思い出が残ってる。受け継がれてるものがある。
それって、彼が口癖のように言っていた師が、後世に残したものと同じなんじゃないのかな? その人と同じように、会って話がしたかった……と、言われることがあるのだろうな。
これから先に何度も、何度も……
それならわたしは、その都度、その度に繰り返し、こう言おうかしら。
あの人は、この海のように爽やかで、深くて透き通っている、とても偉大な人でした――
誰もがこの雄大な海を見て、時に穏やかで時に激しく荒れ狂うその姿、大きすぎる自然の力……「威力」「効力」「破壊力」「影響力」「引力」に圧倒されることがあるように……あの人も、そういう強さを隠し持った人でした。
わたしの、生涯の、恋人――
どうしてこんなに冷静でいられるのかしら?
どうしてこんなに穏やかでいられるのかしら?
彼はもう、ここにはいない。淋しくて仕方がないのに――
目の前に広がる海を眺めながら、わたしは記憶の中の彼に語りかける。
永い眠りについた彼の耳に囁いた、あの時と、同じセリフ……
「ありがとう。お疲れさま……」
いつまでも、愛してる――