蒼月書店の奇々怪々Ⅱ ー日月の夢幻ー
私はグラスに伸ばしかけた手を止めた。
「えっ?」
目の前にいる友人の言葉に、耳を疑った。近くのテーブル客の騒がしい声で聞き間違えたのかと思った。
「やっぱり、びっくりするよね。でも、本当なの。私、前園店長と付き合うことになったんだ。ずっと片思いしてたの」
若菜は照れくさそうに言った。
「・・・・・・そうなんだ」
どうにか言えた言葉が、それだ。居酒屋の喧噪の中では、聞き取りにくかったかもしれない。
「もちろん、みんなには秘密だけど、梨江には言っておいた方がいいかなと思って」
彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。
「それからね、前園店長が別の店舗に異動になるのはみんな知ってるけど、私達の店舗の店長を私が担当することになったの」
「えっ?」
また、同じ反応をしてしまった。
「昇進ってこと?」
「うん。春から店長になります!」
満面の笑みで彼女はそう言ってのけた。友人ならすぐに祝ってあげるところなんだろうけど、私はぎこちなく笑っただけで、何も言えなかった。
パタパタと、小さい背中が駆けていく。私はその後ろ姿を眺める。
「桃子! ちょっと待って」
歩きながら、お姉ちゃんが呼び止めた。もうすぐ四歳になる姪はくるっと振り返り、その場でジャンプした。おもちゃを買ってもらえるとなると、テンションが上がるのを抑えられないようだ。
「早く行きたくてウズウズしてるのね」
「ごめん、急かしてて」
「まぁ、そうなるよ」
桃子の誕生日が近い。そのため、私からのプレゼントとして、おもちゃを購入するために私達はチェーン店のおもちゃ屋に来た。店内は広く、見失わないように私は桃子と手を繋いだ。
「ちょっと、向こうを見てきてもいい?」
私が頷くと、お姉ちゃんは店のカゴを持って衣料が陳列されている方へ向かっていった。
桃子はというと、色々見たいようで私の手を引っ張り、人形やら、電車や車のおもちゃやら、プリンセスのドレスやら、男女関係なく、様々なものに興味を示した。おもちゃだけでなく、自転車にまで手を触れている。周囲にいる子供達も似たような様子だった。
もし、結婚して子供が出来たら、こんな感じなのか。
桃子は会うたびに少しずつ出来ることが増えている。そんな桃子と、大変な子育てを頑張るお姉ちゃんの様子を見ていると、そんな風にいつも感じる。自分がアラサーという年齢のせいもあるだろう。
桃子はキョロキョロと目移りして様々なおもちゃを手に取りながら、一つに決めようと厳選している。この子が楽しそうに笑うと、私も自然と笑えた。
桃子と一緒にいる間は、辛いことも忘れることが出来た。
若菜に好きな人のことを打ち明けたことはなかった。でも、まさか同じ人を好きになっていたなんて気付かなかった。若菜からもそんな話、今まで聞いたことはなかった。
そのショックがあってか、昇進の話も素直に祝えなかった。好きな人と結ばれて、しかも仕事も順調なんて。たしかに若菜は明るくて優しいし、誰からも好かれるような性格だけど、それでも・・・・・・。
未だにショックを引きずったまま、私は仕事を終えて家路を急ぐ。
地元の駅を降りて十分ほど歩き、もうすぐ家が見えるところで、見覚えのない建物が目に入った。古民家のようで、明かりがついている。気になって近付いてみると、『蒼月書店』と看板に気付いた。店先には満天(ドウダン)星(ツツジ)が咲いており、そのそばにある立て看板にはドリンクメニューが書かれている。どうやら、店内で本を読むことが出来るようだ。
こんな本屋、今まであっただろうか。
飲んで色々忘れたい気分だったが、本屋で働いている私としては、そのまま素通りすることは出来なかった。立て看板に記載されている営業時間を確認したが、今は閉店時間の三十分前。まだ、大丈夫だ。
私は出入り口の扉を引いて、中へ入った。
「いらっしゃいませ」
出入り口の近くにカウンターがあり、品の良さそうなグレーの髪のおばあさんが柔和な微笑でそこにいた。洋服にエプロン姿だったが、着物が似合いそうな人だ。よく見ると、翠色の瞳をしている。カウンターの脇にある椅子には、グレーの毛並みの猫が品良く座っていた。ロシアンブルーの猫っぽく、こちらは瑠璃色の瞳をしていて、美人な・・・・・・いや、美猫だ。ここで飼っている猫だろうか。
店内出入り口そばの陳列棚には、新刊本や話題の本が並んでいる。一通り見てから奥の方へ足を運ぶと、その辺りには珍しい本がそろっているようだった。二階へと続く階段もあり、上は飲食スペースのようだが、今は私以外に客はいないようだ。
「いらっしゃいませ」
引き戸の音と共に、再びおばあさんの声が聞こえた。振り返ると、落ち着いた茶髪の男性客が入店していた。童顔で若く見えるが、もしかしたらアラサーの私と同じくらいかもしれない。
私はそのまま店を出るのは気が引けて、平積みされている本の中から見つけたエッセイを一冊手に取った。女性漫画家のエッセイでいくつかシリーズが出ているが、私が普段から読んでいる本だ。今読んでいるものを読了してから次のものを、と思っていたが、ついでだ。これを買っていこう。
私はそれを持ってレジへ向かったが、いつの間にかおばあさんがいなくなっていた。店内を見渡したが、新刊本の棚にいる男性客以外、姿が見られない。どうやら、レジカウンターの奥のバックヤードに行ってしまったようだ。
持っていたエッセイをカウンターに置こうとしたが、そこにはすでにハードカバーの本が置かれていた。えんじ色の表紙にタイトルはなく、金色の太陽と白銀の月が描かれている。見たことのない本だ。
なんとなく気になり、エッセイを置いてその本の表紙をめくった。
シャーッ!
急に聞こえた声に振り向くと、床に降りていたグレーの猫が毛を逆立ててこちらをじっと見ていた。入店したときは何ともなかったのに、今は怒っているのか、あるいは警戒しているのか・・・・・・。
「あらっ」
視線を移動すると、バックヤードからおばあさんが出てきているのに気付いた。翠色の瞳を見開いて驚いた表情をしている。
「その本は・・・・・・」
その先の言葉は何も聞こえなかった。突然、視界が暗転した。
「おい、美月! 遅刻するぞ」
ハッとして顔を上げると、陽一がすでに制服に着替え終わって、私に声をかけてくれていた。
「陽一が遅いから、待ってたんだよ」
「眠気に負けてたんだろ」
私はソファから立ち上がって、リビングから玄関へ向かう。
陽一と一緒に家を出ると、向かいの家から日菜子と悠月くんがちょうど出てくるところだった。日菜子が私達に気付いて手を振ってきている。私も同じように返した。
「おはよう、陽一! 美月!」
最近は、日菜子達と合流してから登校している。
「おう。悠月は相変わらず眠そうだな」
「朝は弱いんだよね、うちの弟は」
「しょうがないじゃん、本来は夜型なんだよ」
目をこすりながら悠月くんは言った。それを聞きながら、私もあくびをしてしまう。
私達は幼馴染みだ。同い年の日菜子と、双子である陽一と私。それから一つ下の悠月くん。私達四人の付き合いは幼稚園からだけど、前世からのもっと深い縁がある。
私達は神様だった。
天照大神だった百瀬日菜子。月読尊だった悠月くん。
太陽神アポロンだった千賀陽一。そして、月の女神アルテミスだった私。
それぞれの神話の中で生きていた私達が、人間に生まれ変わって現代でこうして繋がっている。
「今更だけど、定時制の高校にすればよかったかも。そう思わない?」
高校一年の悠月くんが私に訊いた。
「気持ち、わかるよ」
月の神だった私達は、夜の方が元気だ。特に満月の日はそうで、今日は新月だからいつも以上に朝は眠気を感じやすい。
それでも今、こうして悠月くんと一緒にいられるのは嬉しいけど。
「なんだよ、朝日だって気持ちいいだろ?」
日中は元気な日菜子と陽一。陽一なんて、夜はすぐ眠って夜更かしというものを全くしない。きっと日菜子もそうだろう。
日菜子は明るくて、後輩からも慕われている。友達の私から見ても、まさに太陽のような人だ。
今日もいつも通りの学校生活を終えて、校門へ急ぐ。すでに悠月くんが待っていた。
「日菜子と陽一は?」
「日菜子は生徒会。陽一は委員会」
「そっか。じゃあ、先に帰ろう」
「うん」
こうして、私達だけで帰るときがある。いつもはあの二人もいるから、貴重な時間だ。
悠月くんへの片思い歴は長い。友達と帰ることも出来るけど、弓道部を引退してからは、こうして数少ない一緒の時間を大切にしている。
「いつもあの二人がいるからさ、たまにはこういうのもいいよね」
小さい声だったけど、悠月くんのその言葉を聞き逃さなかった。
「うん、そうだね。こういう時間もあると嬉しい、かな」
思い切って言ってみたけど、尻すぼみになってしまった。悠月くんを見ると、視線がかち合って、彼はフイッと視線をそらした。
「あんまり多いと陽一がうるさそうだけど・・・・・・」
それは想像できた。双子の妹である私も実感するくらい、陽一はシスコンだ。
「俺達だけで帰る曜日を決めといてもいいかも」
私は頷いた。嬉しくて、悠月くんの言葉が心に染みる。
悠月くんが突然立ち止まった。彼の落ち着いた色の茶髪が爽やかな風で揺れる。
「どうしたの?」
「・・・・・・あそこにあんなの、あった?」
悠月くんの視線の先を追って、それを目にした瞬間、何故か心臓がドキッとした。
そこにあったのは古民家だった。妙に浮いていて、この空間にはそぐわないような違和感を覚えた。
「どうだったかな」
二人でその古民家に近付いてみた。そこは『蒼月書店』という本屋だった。来たことないはずだけど、見覚えがあった。店先にあるこの満天星や立て看板も。
「入ってみる?」
「えっ?」
悠月くんはこの本屋が気になるようだった。私もそうだけど、その一方で、足を踏み入れてしまっていいのか躊躇している。なんとなく、入ってはいけないような感じがしていた。
私の気持ちには気付かず、悠月くんは恐る恐る店の戸を引いた。彼も何故か緊張しているようだった。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐそばにレジカウンターがあった。そこにいたのは、私達と同じ高校生くらいの女の子だった。緩いウェーブのかかった黒いミディアムヘアの可愛い子だ。
おばあさんのお孫さんかな?
すっと思い浮かんだそれに、私はビックリした。
おばあさんって誰のことなのか?
戸惑っていると、女の子と目が合った。前髪の合間から見える翠色の瞳にドキリとして、目をそらした。
どうしてか、後ろめたい気持ちが沸いてくる。
悠月くんは店内を見渡してから、近くの陳列棚に歩いていく。私もそちらへ行くと、その辺りの棚には新刊本などが置かれていた。
「なんか俺、ここ知ってるような気がする」
ボソッと悠月くんは呟いた。それは私も感じていた。既視感がある。
「そういえば・・・・・・」
悠月くんは言葉をこぼしたが、その先は途切れた。
「なに?」
「あっ、いや・・・・・・ここって、猫でもいたんじゃないかと思って」
私の脳裏に、グレーの猫が浮かんだ。瑠璃色の瞳を持つその猫は私に向かって、威嚇してくる。
私はかぶりを振った。そんな野良猫に威嚇されたことがあったのかもしれない。
店内を見て回りながら、チラッとカウンターの女の子を盗み見た。彼女はグラスを手にアイスコーヒーらしき飲み物を飲んでいた。
悠月くんは立ち止まって、文庫本を手に取った。彼は本が好きで様子を見る限り、これはしばらく、動きそうにない。
私も本は好きなのだけど、この場所は落ち着かない。古民家独特の素敵な雰囲気で、個人的には好きな場所のはずなのに。
ふと、平積みされている本の中から、知っている漫画家のエッセイを見つけた。
せっかくだから、買っていこうか。一冊買ったら、ここを出るきっかけにもなるかも。
その本を手に取った瞬間、デジャヴを覚えた。
あれ、私・・・・・・。
前にも同じ行動をしたような気がした。どこかの本屋に入ったときと記憶が重なっているのだろうか。
私はそれを打ち消すように、深呼吸をした。エッセイを持ったまま悠月くんに近付く。
「一冊、買ってくるね」
「あぁ、うん。わかった」
彼は一度、私を見てから再び手にしていた本に視線を落とした。綺麗な白い肌の横顔は童顔だけど、油断したら見入ってしまいそうになる。
片思い歴が長いせいか、こじらせないようにしないと。
私は悠月くんから視線を外し、カウンターへ向かった。あの女の子へ近付いていくと、より緊張して変な汗をかいてしまいそうだったが、かまわずカウンターにエッセイを置いた。
すると、彼女は持っていたアイスコーヒーのグラスを脇に置いて、こちらをじっと見た。見通してくるような瞳に、私はエッセイに視線を移した。
「いつまでここにいるの?」
女の子は私にそう問いかけてきた。
「えっ・・・・・・あぁ、長居してごめんなさい。もう、閉店でしたか?」
「そうじゃない」
女の子は離れた悠月くんの方へ視線を向けた。
「あのときも、彼はああして本を読んでいたね」
何のことを言っているのか、わからなかった。
「まさか、めくっちゃうとは思わなかったけど、あの本をカウンターに置きっぱなしにしていた私も迂闊だったからね。こうして、迎えに来たんだ」
ドクンッと心臓が跳ねた気がした。女の子はまた、翠色の瞳を私に向けてくる。
「でも、馴染んでいる様子を見ると、受け入れてしまっているようだね。どうしたいかはあなた次第だけど、彼も巻き込んでしまっているからね。どうする?」
「・・・・・・何のこと言っているの?」
「この幻想に居続けたいか、あなたの現実に帰るか」
今、重大な選択を迫られていると、私の中で何かが警告を発していた。
「ここに残りたいなら、止めはしない。あなたが選んだことだから。ただ、帰りたいなら、あなた達を連れて戻らなきゃいけないからね。自力でここを出るのは難しいから」
帰る?
突然、私の中から何かが込み上がってきて、胸を締め付けられた。何か、辛いことが待っている気がした。
私の現実って何? 今、私が見ているものが現実でしょ?
「あぁ、そうか。共鳴してしまったんだね。でも、それでいいの?」
目の前の女の子は、わけのわからないことを話しているのに、何かが私の中でせめぎ合っていた。
帰らなきゃいけない? でも、そうしたら・・・・・・。
ガラガラと、音がした。その音で私の思考が止まった。
「美月、やっぱりここにいたのか」
出入り口に、陽一が立っていた。
「なかなか家に帰ってこないから、心配したんだぞ」
そう言うと、陽一は奥にいる悠月くんに向けて声を上げた。
「おい! 悠月も帰るぞ」
その声を聞いて、ようやく悠月くんは陽一に気付いた。
「あっ、陽一。来てたんだ」
悠月くんは文庫本を棚に戻して、こっちに来た。
「来てたんだ、じゃないだろ。日菜子も気にしてたぞ。俺らより早く帰ったはずなのに、家にいないんだから。寄り道もほどほどにしとけよ」
「あぁ、うん。ごめん」
陽一は私の手を取って、連れ出そうとした。
「彼女達をここに縛るつもりなの?」
女の子が発した言葉に、陽一は足を止めた。
「感心しないな」
陽一は女の子に振り返った。
「あんた、何の話をしているんだ? 意味がわからない」
「私はむりやり彼女らを連れて帰ろうなんて考えてないよ。何を選択するかは彼女達の自由だから。でも、あなたが彼女達の意思を無視してここに閉じ込めようとするのは、よろしくないね」
一体、何のことを言っているのか、私にはわからなかった。何故、そんなことを陽一に言うのか。
陽一はかまわず私を引っ張って、本屋を出ようとした。
しかし、陽一が扉に手をかけても開かない。固く閉ざされていた。
「・・・・・・あんたには、関係ないはずだ」
女の子に振り返りながら話す陽一の声が低くなり、私は驚いた。陽一は女の子を睨んでいる。
「関係あるよ。彼女達がここへ来てしまったのは、私の責任もあるからね」
「余計なことを」
陽一は怒っているようだった。それでも、私の手は掴んだままだ。
「陽一・・・・・・?」
悠月くんが戸惑った声を上げた。それもそうだ。こんな陽一、今まで見たことない。
「物語はまだ始まったばかりだ。邪魔しないでほしい」
物語?
「私はただ、彼女の意思を確認したいだけだよ」
女の子は陽一から私に目を向けた。
「物語には、すでに決まった流れがある。この物語の場合、結末はハッピーエンド。主人公は途中で辛いことや悲しいことを経験するけど、それを乗り越えて最終的には大団円。よくある物語の構成だよ。でも、それを迎えたら終わり。その先はなく、同じことをループする」
「ループ?」
悠月くんが聞き返した。
「悠月、お前までこんなことを聞く必要はない」
陽一がそう言っても、女の子はお構いなしに続けた。
「小説ってそうでしょう? 初めから本をめくって最後まで読み進める。そしてまた、それを手にした誰かががめくって読み進めていく。そんな決まった物語の中に、あなたは居続けたいのかと訊いているの」
女の子は再び私に向けて問いかけてきた。
「共鳴してここにいる。それが答えだ」
「現実は決まってないし、全く同じことがループすることはない。選択肢はたくさんある。嫌だと感じる経験をしたとしても、その後どういう現実を創造するかは、あなた次第。あなたが、自分で創るんだよ」
「・・・・・・何でそんな話になっているのか、よくわからないけど」
私が口を開く前に、悠月くんが話し出した。
「俺もそう思うよ」
「悠月!」
陽一が声を荒げた。
「あぁ、ごめん。陽一が何を怒っているのか、わからないけどさ。何ていうか、普段からあれこれ難しく考えたりすることあるだろ? ああなったら嫌だな、とか。これ選んで大丈夫かな、間違ってないだろうか、とか。それで悩んだり、躊躇しちゃうけど、しなければならないじゃなくて、シンプルに今、どうしたいかを見つければいいんだと思う。子供みたいに」
子供と聞いて、幼い少女が記憶の底からフッと現れた。会ったことないはずの少女だけど、私はその少女を知っていた。
「桃子・・・・・・」
あの子は私の手を引っ張って、自分の興味の赴くままにあちこちと向かっていた。
私は女の子に訊いた。
「私もそんな風にしたら、何か変わるかな?」
女の子は少し目を細めて、微笑んだ。
「あなたの意識しだいだよ。心に従って」
私は・・・・・・。
グッと、陽一の手に力がこもった。振り返ると、陽一はかぶりを振った。引き留めるように。
「私、行かなきゃいけない気がする。今の状況から、変わりたいんだ」
そう言うと、陽一は寂しそうな顔をした。
「上手くいくか、わからないのに。決まったレールの上にいる方が、楽だろ」
「それでも、私は望む道を行きたい」
そう告げると、陽一は私の手を放した。
「決まったようだね」
女の子は、いつの間にかカウンターに置かれていたえんじ色の本を指し示した。
「これに触れて」
その本も見覚えがあった。言われたとおりに、私はその本の表紙に触れた。
「あなたも」
女の子に言われて、悠月くんも戸惑いながら同じようにした。
すると、本は白く光り始めて、少しずつ輝きが強くなった。
「いいね?」
女の子は陽一に訊いているようだった。
「もう、共鳴できない。このままここにいても、物語がスムーズに進まないからな」
そうこぼすと、陽一は苦笑した。
そして、私に視線を向けた。
「残念だよ。あの人が描いた物語を形にしたかったのに」
目を開くと、おばあさんが私を覗き込んでいた。
「あぁ、よかった。目が覚めて」
ほっ、と安心したらしく、おばあさんは翠色の瞳を細めて息を吐いた。
「あっ、私・・・・・・」
「急に倒れたからビックリしたわ。貧血かしらね」
私は本屋の店内で、壁にもたれるようにして椅子に腰掛けていた。
「すみません、ご迷惑をおかけして・・・・・・」
「いいのよ。気分はどう? 大丈夫?』
私は頷いた。
ふと、視界の端で何かが動いた。視線を動かすと、カウンターからこっちを見ているグレーの猫がいた。ちょこんと座って、瑠璃色の瞳を向けてくる。
「あの・・・・・・カウンターに置かれてあった本、勝手に触ってしまってごめんなさい。私、本が好きで気になってしまって」
「あぁ、あれね。売り物じゃない本を、私が置いたままにしてしまっていたから。もう気にしないで」
「あの本は、何か特別な本なんですか?」
私が訊くと、おばあさんは徐にカウンター横の椅子に座った。
「あれは、私の友達が持っていた本で、亡くなる前に私に譲ってきたのよ」
「それじゃあ、その人の形見の品ですか」
「そうね。あの本の著者と友達の間で親交があって、著者の方が友達にわたしたものなの。著者は先に亡くなられてしまって、それ以来、友達はあの本をずっと大切にしていたのよ」
「どういう内容なんですか?」
「小説よ。神話の神様にちなんだ物語」
私はハッとした。
「私、その本に関係した夢を見たような気がします」
「そう」
私はうつむいた。
「最近、辛いことがあったんです。それをずっと引きずってて。夢の中でもう、変わりたいって思ったんです。でも、今までことあるごとに、辛いことを思い出しちゃうんです」
「起こった出来事は、全て意味のあること。それが一見、マイナスなことのように思えることでさえも」
私が顔を上げると、おばあさんが微笑んでいた。
「あなたが次に進むために起こったこと。そんな風に捉えてみてもいいんじゃない?」
次に進むため・・・・・・。
「そうですね。ポジティブに考えたら、先のことも楽しみになるかも」
私は、若菜が店長になる直前に書店での仕事を辞め、転職した。今日はその初日。本が好きな私が次に選んだ仕事は、図書館司書だ。
緊張感を抱きつつ、職場となる図書館へ向かうと、カウンターにいる女性スタッフに声をかけた。責任者を呼んでくると言われ、カウンターの端の方で待っていると、地下の書庫から男性が上がってきた。それは、見覚えのある姿だった。
「あっ・・・・・・」
私の後から蒼月書店にやってきた男性客だった。
「あぁ、やっぱり。以前、古民家の書店にいましたよね」
相手も私のことを覚えていたが、それ以上に驚いたのは、彼が悠月くんと全く同じ顔だったことだ。
「とりあえず、一緒に地下へ降りてもらえますか?」
男性の後について地下に降りた。ここは、利用者が立ち入れない閉架書庫と作業室があった。作業室に入ると、彼は私に振り返った。
「七瀬梨江さんだよね。僕は朔田透。書店で見かけたとき、倒れてしまったみたいだけど、大丈夫でした?」
「あ、はい。おばあさんがそばにいて下さってました」
「そうか。あのとき、僕も倒れていたみたいなんですよね」
「えっ」
「七瀬さんが気のつく前に僕は目が覚めたんですけど、その後はおばあさんがあなたのそばにいてくれるとのことだったので、僕は先に帰っていたんです」
「朔田さんは大丈夫だったんですか?」
「ええ。すぐ動けました。七瀬さんの履歴書の写真を見たときは、もしかしたらと考えたんですけど、まさか本当にこうして会うなんて、ビックリですね」
悠月くんと同じ顔の朔田さんは、笑顔でそう言った。
私に、新しい縁が出来た。
何もない更地の前で、人間の女が首を傾げている。後ろ姿を見るに、以前にあいつの店であの本を触ってしまった人間だろう。また来ようとでも思ったのかもしれないが、あいつの店は同じ場所に長く留まることはない。
その人間は諦めたのか、その場を去っていった。
私は誰もいなくなった道路の端で、瑠璃色の瞳を光らせた。
すると、更地の空間が一瞬歪み、ガラス入りの和風の引き戸が現れた。その前で立ち止まると、扉が自然と開く。中へ入ると扉は閉まり、消えていった。
真っ暗な空間に白い道がまっすぐ延びている。しばらくその道を歩いていくと、また同じ扉に辿り着いた。唯一異なっているのは、扉の前に満天星が咲いていることだ。
静かに扉が開き、私はその先へ進む。
「やぁ、いらっしゃい」
見慣れた店内に背の高い黒髪の優男がいた。翠色の瞳を光らせて、奥の陳列棚から歩いてくる。
「本が入荷したのか?」
「うん。亡くなった友人が持っていた本をいくつかね。亡くなる前に、好きなようにしていいと言っていたし」
「あのえんじ色の本ではないだろう?」
「あれは、友人にとって特別な本だからね。持ち主の想いがこもった分、あの本は友人の力の影響を受けてしまった。人間の彼女と共鳴して、あんな現象が起こってしまったものだから、売り物には出来ないね。一応、今は僕の所有物だよ」
優男の姿をした店主である翠(スイ)は、カウンターに置かれていたアイスコーヒーの入ったグラスを一口飲んだ。カラッと氷の音がした。
「今日は来るのが早いね。まだ誰も来てないよ」
「人間以外は、だろう。その友人の本に触れた人間の女がここに来ようとしていたぞ」
「あぁ、店がなくなってて、驚いただろうね」
私はカウンター横に置かれている椅子に飛び乗った。そこに香箱座りすると、翠は私のグレーの毛並みを撫でてくる。
「いつものことだがな」
私はあくびをした。
「彼女はもう、大丈夫でしょう」
翠はそう言って笑った。
何がいいのか私にはわからんが、翠は人間との交流をこうして楽しんでいる。
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