“わたし”が“ぼく”だった頃
幼い頃、わたしは「ぼく」だった。
性別の話ではない。
性別は女だが、自分のことを「ぼく」と呼んでいたのだ。家族からそれに関して止めるように言われた覚えはない。だからそれがおかしなことだと気づいたのは、小学生になってからだった。
帰りの会、なるものが行われていた。
次の日の予定や持ち物を伝えたり、その日あった出来事を発表するような、あれ。
そこでひとりの男の子が手をあげて言い放った。
「はーい!風花さんが女の子なのに、自分のことをぼくと言うのはおかしいと思います!」と。
そのとき、自分がなにか言い返したのか、それともなにも言えなかったのか、そんなことはもはや覚えていない。ただその時の、クラスメイトから注目された恥ずかしさや、人と違うことをしていたという事実へのなんとも言えない居心地の悪さはよく覚えている。
なぜわたしが「わたし」と言えなかったのか。
それは単純にそう自分を言い表すことに違和感があったからだ。わたしにとって、あの当時、自分を表すのに相応しいのは「ぼく」だった。「わたし」はどうしても違ったし、言葉にすることがひどく恥ずかしく思われた。
その出来事があってから、学校で自分のことを「ぼく」と呼ぶのは控えた。わざと「わたし」と言ってみたりもしたけれど、依然としてあの違和感は拭えなかった。それでも徐々に慣れて、いまは当たり前だがちゃんと「わたし」と言えるようになった。それでも正直、家族のまえでは一人称を「オイラ」などとふざけて言ってみることはままある。
40も手前の女性が自分のことを「オイラ」と呼んでいる姿は、端から見たらさぞ痛々しいのかもしれない。
でもこんなにも大人になっても、やっぱりあの違和感は抜くいきれていないのだ。自分が女性であることへの違和感というのだろうか。
恋愛対象は男性。花柄やフリルも大好き。ワンピースも大好きだ。けれど毎日は着れない。そういう服を着る日は、「今日は女の人の気分だな」と思ったときに着るのだ。だから普段はTシャツやパーカーにパンツ。そしてキャップを被っているので、ほぼほぼ男性と変わらない格好をしている。正直、自分のことを「ぼく」と呼んでいた頃は、スカートも嫌いだったし、髪もずっとショートカットで、それこそTシャツ、短パン生活だった。花柄やフリルは、大人になってようやく女の人である自分に慣れてきたからこそ好きになったと表現するのが正しいだろう。
こうして書いてみると、「女の人の気分」の日と「男の人の気分」の日があるのは、わたしにとってごく当たり前のことだったのだが、他の人にはないのだろうか。あまりに当たり前すぎて、いままで疑問に思ったこともなかったけれど。
わたしは別に男性になりたいわけでもないし、女性であることに不満があるわけでもない。けれどこの違和感は何かと考えたときに、ふと思ったことがある。自分の前世が男性だったのかもしれない、と。
いきなり何を突拍子もないことを言ってるんだと思われる方もいらっしゃるかもしれない。けれどわたしは、いまの世の中でいうLGBTの方とは違うし、でもずっと拭えない違和感を考えたとき、この「前世が男性だった」という考え方が一番しっくりきたのである。
この考え方なら、幼い頃、自分を「ぼく」と呼んでいたのも、男性であった前世を引きずっていたからなのだろうと勝手に納得できるのである。
この話に、特段の落ちはない。
実は前世が男性だったことが判明しました!なんていうこともない。ただ、いま世の中は、性別も恋愛対象も色々なかたちがあって、それが広く認知されるようになってきている。これからもっと多くの人が、以前より生きやすくなっていくことだろう。いまが移り変わりのとき。もしいま、わたしが小学生で、自分を「ぼく」と呼んでいたのなら、あのときわたしをおかしいと言った男の子も、また違ってくるのかもしれないと、そんなことを思ったのだ。誰もあの時のわたしを「おかしい」とは言わない世界がくるのかもしれないと。
早く、もっと、さらに自由に、みんなが生きやすい世界ができるといい。そんなふうに思った、秋の午後。
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