障がい児育児で通る道
学校の先生が合わなくても耐えなければならないということ。
今日も辛辣すぎる言葉遣に腹がたった。
いつも息子の側に居てくれているわけではないのにしっかり意見を提示する。
必ず言いたいことは言う。
私は言いたいことの1つも言えてないというのに…
先生を信じ悩みも何もかも話ししたことが、バカバカしく思えてくる。
何も寄り添ってくれたりなんかしてないじゃないか…
息子を理解して欲しいからこそ書いている手紙は、息子の日常が知りたいという裏返しだ。
私は先生からの今日あった息子の出来事を教えてもらわなければ、何もわからない。
けれど、忙しいということを理解しなきゃいない。
教えてもらえても、たった少しの日常だ。
それを理解して、ただ一方通行のまま過ごさなきゃならない。
少しの情報だけを頼りに息子を理解するしかない。
爆発しそうになる。
自分の子供が障がい児なら、それで理解できますか。と。
今日は心がだいぶ荒んでいる。
先生の無言の「理解してください」という気持ちに私は理解しようとしているというのに、できていないことにズバズバと適格に指示されることに耐えなきゃいけないですか?
あなたはどうなの?ってなる。
「めんどくさい」とか、「そんなことはどうでもいい」とか勝手に無駄だと省かないで欲しい。
細かな気持ちが誰にでもあって、単刀直入にはいかない気持ちや出来事があって今があるのだから。
正直担任の先生が難しいのなら、息子に関わってくださっている先生方と情報のやり取りがしたい。
関わってくださっている先生方に、直接息子のことについて聞きたい。
だって先生に書き伝えている内容を、読んでいないのではないかと思う時があった。
私のしていることが無意味に思って悲しかった。いい加減な人だなぁ、と思ってしまった。
たったそれだけのことが私には言えず、半年の時間がすぎている。
我慢してる。
言いたいことが言えないのも障がい児育児の1つの辛さでもある。
言ってしまえば息子が辛い立場になっては困るから。
息子は頑張ってると思う。
だって先生から見て子供に必要ないと思うことを勝手にはしょられる。
私なら耐えられない。
自分の身になって、自分の子供だとしたら…と本気で考えて欲しい。
障がい児育児をしていると、人の気持ちを察したり、拾わないでいい情報を拾ってしまい苦しんでしまう。
誰が何を考えているか、顔色を見てしまう、そして大抵のことがわかるし感じてしまう。
相手は遠慮なく意見も顔にも出すからだ。
これがとても疲れてしまう。
腹が立っても収める。
これも嫌!
言葉を選ぶという気遣いはとってもクオリティが高い。
それなのに、大事な時にそれが発揮できない時がある。
自分の体調が悪い時だ。
顔色を伺いながら立ち回りに気をつけるなんてもう嫌!
もううんざり!
息子はそんな先生の雰囲気を感じ取っている。
実はとてもかしこい子供だ。
先生を見ていたら、健常者の当たり前が醜く見える。
自分本意で、無駄なことは上手くごまかして都合よく人任せにしたり。
自分の気持ちも全く引かない。
先生は一生懸命になりすぎると自分もしんどいしらしい。
その通りだ。
だけど、一生懸命は通じるよ。
私が求めるものは、普通にできることではなく、息子自身を見て欲しいということ、ただそれだけだ。
人間の頭脳を使ったうまく立ち回ろうとする姿は嫌気がさす。
そんな部分はいずれ自分に返ってきますよと言いたい。
そういううまく立ち回ることができるのに、とても感受性は強く、傷つき易く、自分にとてもとても優しい。
そして無理はしない。
イヤなことは誰かに任せてしまう。
そして考え出すと眠れない人。
とっても感じとる能力の優れた人なんだと思う。
だから、息子の感情を察知するということにはたけてる。
だからでもとても良いところをお持ちなだけに、残念でならない。
私が思うことについてできない理由として一つに、一人一人が満たされるべき教育が、人員不足でままならない現状だそうだ。
そして息子のとっさの行動は仕方ないことだと思っているのだろう。
私ははたしてそう思われることが自分ならそれで良いのですかと問いたい。
息子達障がい児は本当にそれらを甘んじて汲み取らなきゃいけないのだろうか?
優しくない世界はおだやかな子供の世界にもあるということが苦しい。
もちろんこんな気持ちは感謝の上での気持ちです。
だから我慢してるし、
だから言えない。
人は誰かの共感や支えがあってこそ生きてける。障がいがあるということは、他の人よりそういった支援が必要だということなのに、私が一生懸命伝えても、自分の身にふりかかっていなければ他人事なのか?伝わらない。
こちらはいつも真剣なのだ。
もうすぐ小学校を卒業する。
次は支援学校に行く。
そんな時にこんな気持ちでいるのは異常事態。
とても残念でならない。
そんな曖昧な気持ちを持ったまま卒業していきたくない。
支援学校に行くこと。
遠い昔に胸が痛んだことがちょっとだけ疼く。
これからはみんなと離れ離れで生きるんだ。
みんなはどんどん学業に勤しむ。
逞しく成長していた。
それがみんなの通る道。それが当たり前で、
輝く未来ある子供達の道。眩しく感じた。
沢山勉強してお医者さんになったり、看護師さんになったり、沢山身体を動かして思うようなところに行き、会いたい人に会って、自分の足で自立への道を歩む。
夢はいっぱい無限大に膨らむ。
息子にもそういう道を歩ませてあげたかった。
息子と一緒に過ごしたクラスの子供達にはたても感謝している。
息子はいったいどんな道を辿るんだろうか…。と不安になる。
私も知らない世界。
親さえも知らない世界だ。
だからせめて心から信頼できる理解者がいて欲しい。
それが甘えすぎで、与えられすぎでしょうか?
息子のことを忘れないでねと押し付けたりはしない。
だけど、いつかこの息子の事を思い出し、困っている人がいたら手を差し伸べてくれる優しい人になっていてくれてたらいいな…と勝手な気持ちはある。
今まで一緒に過ごしてくれて助けてくれてありがとうという気持ちがある。
支援学校へ行ってしまうということは、息子を目にする機会が減るということだ。
障がいがある息子が健常の世界かからどんどん遠ざかるほどに、健常者との壁がどうしてもできてしまうということは、必ず起きてしまう。
そのことで障がいに対する偏見が膨らんでしまうことを恐れてしまう。
いつになったら暮らしやすい世の中になるんだろうか…
自分事のように人の気持ちになれる人。
いろんな面で、偏見がない人。
気持ちを否定するのではなくわかろうとする人、しいてはアドバイスもできる人。
状況に応じた言葉を知っている人。
一緒にその子の課題を乗り越える努力ができる人。
待つことができる人。
根気がある人。
一生懸命な人。
親含め子どもに対して否定するよりまず受け止めることができる人。
めんどくさがらない人。
子供より
自分が一番じゃない人。
利他の心がある人。
上から目線じゃない人。
他にももっともっとあって、こんなことを親は育児を通して体得しているのが現状です。
先がとても長い。
1に根性2 に根性3、4も根性5も根性!
本当に過酷だ!
思いの外過酷な育児をしている母親はいつも疲れています。だから目の前が見えなくなる時があります。
そんな時に支えてくれたり、なぐさめてくれたり、一番は気持ちにたったアドバイスをくれる先生や家族がいてくれたらもう百人力なのです。
障がい児育児はもう辛くないものになる。
そんな障がいをもっていても生きやすい未来が来て欲しいです。
みんなは勘違いしているけれど、子どもがみんながみんな健康で健やかな赤ちゃんばかりが産まれるとは限らないんです。
障がいを持って産まれてくる子どもも万に1つあります。
そして自分のずっとずっと前の先祖や、ずっとずっと続いてく、残していく自分の血を分けた子孫の中にはきっと障がいをもった子どもが産まれることは必ずあるはずだ。
だから、みんな他人事だと思わず大切に育てなきゃいけないって…
私の父が言った名言です。
障がいを持った人は一人では生きていけません。
でもだからこそ沢山の優しさ、思いやり、人が人間らしく今日1日の中で小さな幸せに感謝できる心を、側でいると感じることもできますし、とても貴重な存在です。
最近でも人は悲しいものだと思ってしまいます。
備蓄するのもいいけど、備蓄していることは隠したほうがいい…とか…
本当に心が貧しきなったな…と私は悲しくなります。
そんなでは、自分が困った時に助けて貰えなくても文句は言えませんね…
生きるとは、命とはなんでしょうか…
本当の幸せとはなんなのでしょうか。
温かな世界が待ち遠しいです。