021【マジカル】
マジカルとは、「魅惑的で夢見るような」または「魔法の力にかかったのような不思議な」という意味で使われる英単語の形容詞。
ぼくは最近、よく夢を見る。寝て見る夢ではない。現実に叶えたい夢。
2015年6月、ぼくは、とある勉強会で「時間と空間、そして仲間を意識した学級での居場所づくり」についての提案をした。自分としては、渾身の提案だった。教育という、それまでの自分と異なる分野の扉をノックしてみると、ぼくにはカオスでしかなかった。「愛される子」を育てる、「子どものために」という提案だらけで、「それはほんとうに本人が望んでいることなのだろうか」と、すぐにそんな疑問が頭をよぎった。ぼくの提案は、賛否両論の印象で、多くの方には忌み嫌われ、無視され、挙げ句、発表の在り方としてご丁寧に批判までされた。このままじゃいけないと強く感じた節目であると同時に、この分野にどっぷり浸かろうと決意した節目でもある。
インクルーシブな社会を考えたとき、一人一人が安心を感じて、安全に社会と関わっていける社会とは何か、それを第一義と考えた。「愛される子」を育てる。自分から「助けて」と言える子を育てる。それは、正しい。でも、それは、本当に本人にとって幸せなのだろうか。
支援する側と支援される側、そんな関係性を想像している限り、この国は永遠に前進しないのだと思う。「愛される子」ってのは、誰にとってだろう。「助けて」ってのは、相互的な関係において成り立つ。でも、軽々しく発せられる「助けて」ってのは、どんな関係性をイメージしてるのだろう。
ぼくなら、自立したい。「愛される」だけなんて、まっぴらだ。辛いときに助けてもらえるのは感謝するが、いつか自分も助ける側に立ちたいと思う。これまで学校で行われてきた『教育』っていうのは、広義に捉えれば、それは時間と空間を調えたに過ぎない。仲間づくりや心には踏み込んでこなかった。
・同じ教室で静かに座って学んでいればいい。
・みんなで同じとき、同じ内容を勉強させればいい。
戦後50年、大量生産が利益に直結した時代。資本主義経済において、学校の存在意義として、それは正しい姿だった。しかし、その姿を、当事者は本当に望んでいたんだろうか。たとえ小さな仕事であっても、「ほめられたい」「役に立ちたい」「必要とされたい」と感じてきたのではないだろうか。『特殊教育』が、2012年『特別支援教育』へと、やっと名称も理念も変わっていく。それが、その証拠だ。ぼくたちにとって『幸せ』っていう状態は、個々の関係性において、しっかりと仲間として必要とされることにある。
ぼくは、最近よく夢を見る。魔法のような社会の夢を見る。
それぞれの地域で学校が中心となり、生涯学び続ける場が形成されていく夢を。突然、奇声を上げる人、常識では受け入れられないこだわりを持ち続ける人、人と話すのが不安でたまらない人、何度言っても時間を守れない人、ちょっと落ち着いて座っていられない人、ものすごく頭が良くて、一言多い人、、、どんな人でも、どんな場所でも、どんな時でも、安心を感じて、安全に挑戦できる社会を。
そのためには、まず個々人が人の認知や発達の理論を知らねばならぬ。しかし、全員が対人支援の専門家になることは不可能である。ならば、公教育が最低限の人を育てる専門家にあるべきではないか。心理学を学び、哲学を学び、教育学を実践をベースに学んだ専門家が、教師として中心になる社会には出来まいか。そして、公立学校が地域の中心となって、子どもを実社会と結びつけていけないものか。人の認知や発達の理論を学び、実社会とつながった子どもたちは、専門家とは言えぬまでも、将来において、必ず子どもと人をつなげていくように思う。どんなに困った対応をする人でも、その人が、どんな人かを知っていれば、コミュニケーションは成立する。コミュニケーション能力の不足だから、ソーシャルスキルをはじめとするコミュニケーション能力をつけるのではなくて、地域の子ども、人が対話する場をつくって、コミュニケーションが成立すれば、社会から不安はなくなっていくのではないか。
ほめられない・叱られているから、自己肯定感が低い。テストの点数が悪いから自信が持てない。んなバカな!!ほめるというのは方法を間違えれば悪い効果も及ぼす。役に立っている・必要とされている実感が、子どもにも大人にもない社会なんだと思う。
2014年11月に発表されたアクティブ・ラーニングの本丸は、主体性じゃないかと思う。能動的な学修。2000年に示された「生きる力」の育成はそのままに、実社会で生きる学びの実現こそが重要だ。一人で生きていけるから「自立」とは違う。これは、比喩だけど、誰かと結婚する前に、まず、自分が自分と結婚することが「自立」だ。
ならば、公立学校は、教師は、どういう未来を夢見ればいいのだろうか。
学びを実社会とつなげろ!!実社会を入り口にした学びの出口は必ず実社会になるのだから。学修に、自分を知る活動を取り入れたとき、そこに教師の創造性が生まれる。
つまり、教科や道徳、総合的な学習の時間、特別活動において、導入の問いには『実社会』を意識すべし。そこから、学習指導要領に明記されている指導事項を意図的・計画的にきっちりと教える。最後にオープンクエスチョン(正解のない問い)を投げかけメタ認知させる。この正解のない問いにこそ、教師の創造性がある。すると、自ずと子どもたちは『実社会』を出口として意識する。学習指導要領が8割、社会参画が2割という授業デザインだ。
これをどの教師とも共有できたら、専門家の育成とか、ICTの整備とか、小中連携の学校の新設とか、特に予算をかけずとも、未来の教育が実現できると確信している。具体的な実践例はバカロレア。ここで、ぜひ先行実践から画一化を目指すのではなく、あえて多様な成功実践を示して欲しいと期待している。そんな難しいことじゃない。ちょっと意識を解き放つだけなんだ。優秀な日本の公教育なら、すぐに実現できると思っている。
「時間と空間、そして仲間」
やっといろいろな人が聲高に提案するようになってきた。この先の夢見る学校は、すぐに実現するような気がしている。社会が変わるまでには、もう少しかかるけれども、大きな一歩は、確実にはじまっている。子ども自らを学習者にする問いづくり。その手段は『拡散』と『収束』のバランス。教科書から入ったら、教科書にしか出ない。実社会から入れば、実社会に出る。実社会と教科書をいかにつなげるかが、教師の仕事の醍醐味。50年後においても、小学校教諭がなくならない仕事っていうのは、単に対人支援職としての心理カウンセラー的な側面があるからではない。人に対することに加えて、多くの創造的活動を求められるからだ。
改めてアクティブの意味をはき違えずに、ガンガン行こうぜ!!
でもね、実際に、ぼくは眠りにつく時間は限りなく不眠になっており、うなされることも多々。よく生きてるなぁっていう日々。自分がやりたいことだから、日々是好日なのだけど。環境面でも、体力面でも、ぼく一人では、おそらくムリ。もっともっと考えを共有できてるいいなと思うけど、現実は酷く厳しい。ただ深層部分では、随分動いている団体があることを知り、喜びに溢れる年度末。意識や心にフォーカスした教育へ、ゆるやかにシフトしていく。教育という仕事は、とてもやりがいがある。