048【怒られて良くなることはあるけれど・・・】
「怒られて良くなることがある」
でも
「良くなるためには怒られなくてはいけない」
これは、最近の先生が、無意識にやってしまっている。特に、子供と接する人は気を付けないといけない。ほめ方・叱り方が議論されてきてから、行動の意味を問うようになり、目的化してしまっている。
ほめるとは、肯定的な言葉かけをしたり、良い点を見つけたりして、子供が自信を取り戻すようにする方法である。「ほめる」というのは、ブリーフセラピーの一種。本人の気付いていない「よさ」を承認の言葉で気付かせることだ。
叱ることも同様の効果がある。反省を促し、自分の課題に気付かせること。怒ることと叱ることを同じものと無意識に考える場合が多い。でも、ほめることとは、まったく違う。そもそも、教育に反省は必要かどうかも疑わしい。一人ひとり問題や症状は違うのだから、その人のニーズの形に合わせた行動をしなければならない。その人を理論に当てはめてはいけない。叱るときの基準として、①命に関わること、②何度注意されても改善されない、③やればできることをやろうとしないの3つがよく言われる。その通りだと思うけど、それでもその人の世界に合わせなければ意味がない。
怒るなら、まず潜在的に子供を全面的に肯定すること。それこそ、無意識に愛するレベルまで。次に、自分の直感的なものを信じること。そして、怒る際、子供の人格を怒るのではなく、間接的なものを怒る。
「うるせーー、ばか!!」
「ちがうだろ!!はげー」
じゃなくて、
「遅刻することで、〇〇に迷惑がかかる。それは最低限の礼儀であり、相手を尊重していないことになる」
「失礼な対応をすることで、だれが悲しむか、創造してごらん」
「言われたことをしないと、信頼を失うことになるんだぞ」
「うるせー」や「ばか」「はげ」のような怒り方を、子供が理解し、納得するまで、永遠と続けられるなら、怒ればいい。そしたら、結果として、良くなることがあるかもしれない。でも、それはすごく稀である。そもそも怒られる・叱られるのは、みんな嫌である。耐性をつけさせるという考えもあるが、それはまた別な次元のことだ。良くなるために、怒らなくてはいけないことなんてない。これは、ほめることも同じで、良くなるために、ほめなくてはいけないと思って、ほめているのだとしたら、その思いは永遠に伝わることはないだろう。形式的にほめ続けているうちに、ほんとうに子供が好きになり、無意識に愛が生まれ、承認し肯定したくなる場合はあるだろうが、これに気付かずに、プラシーボ効果だとか、セラピーだとか言ってるとしたら、それはエセである。
「ほめられて良くなることがある」
「怒られて良くなることがある」
でも、、、。
「良くなるためにはほめられなくてはいけない」
「良くなるためには怒られなくてはいけない」
ボクたちは、当たり前の存在の良さには、気づけない。だから、意識していなければならない。そんなことはないのだ。ほめることも、叱ることもない。あるのは、あなたをちゃんと見ているよ、愛しているよという心だと思う。それでも、ほめたり、叱ったり、怒ったりできないという人は、次の点を見るようにするといい。
・困難に直面した時、どのように対応するか?レジリエンスはどの程度か?
・ユーモアのセンス
・秩序だった考え方、勤勉さ
・思いやり、他人の立場を理解する能力はどうか?
・傾聴の意欲、生き方を学ぼうとする気持ちはあるか?
・過去の事例
こうしたことを形式的にでもよいから繰り返し押さえるようにすれば、自然と怒れるようになる。怒りの感情は、主に過去の記憶に対する思い込みが多いから。先入観を持たず、セレンシビリティを信じる。菊池省三氏がされる実践で「ほめ言葉のシャワー」というのがある。この実践を追試する多くの先生が「うまくいかない・・・」と嘆く。時間の問題、プラシーボ効果の問題、他の先生の実践の「ふりかえりジャーナル」も。ほめ方・叱り方の実践も。これらの実践は「良くなるために」行うものではない。実践したら、結果として「良くなることがある」という実践だ。子育ては、頭でするものじゃない。どんなに本を読んでも、実践書を真似しても、理論に当てはめてはいけない。一人ひとりのニーズは違って当たり前なんだから。全面的な肯定。そのすべてを利用する覚悟がいる。