この時代の、悟り
その「間(ま)」に叡智がやってくる
至福がじわりと入り込む
耐水加工がされたアスファルトに、なんらかの衝撃が走ってできたヒビ割れ
そのヒビから、雨水が吸い込まれていくように
スキマ、に大宇宙がやってくる
神が、やってくる
そのスキマ、とは
「間」とは
思考と、思考の、間(あいだ)
「わたしが」「わたしなんて」「わたしは」「わたしって」
いつなんどきもこのイノチが「わたし」であることを離してくれない、わたしわたしわたし……
無限に自分に覆い尽くされた「わたし」という概念、思考
いつの間にやら形成された「わたし」という虚像、妄想、創造された産物
それが、ないとき
その「わたし」と「わたし」の間、「わたし」がないとき
熱中や夢中、集中してるとき
──野球の素振り、編み物、ゲーム、パンをこねているとき、ランニングしてるとき、歌ってるとき、踊ってるとき、絵を描いているとき
香りのいいお茶を飲んだとき
くしゃみをした瞬間
うとうとしてきたまどろみ
お風呂に全身を沈めての「ふぅ~」ってなってるとき
誰にだって、そういう「間」がある
「わたし」が「わたしのこと」について考えていないときがある
自分だけが自分を見えていない
自分だけが自分を見ていない
「わたし」という概念であり思考に目隠しをされている
「間」であるとき、イノチはゆるむ
ゆるむ
ゆるむと、その目隠しがゆるんで、世界が見えてくる
そこに神がやってくる、大宇宙の叡智が差し込まれる
実際それは、いつなんどきでもこのイノチと共にあり、この世界を形成していて
いつなんどきでも、今も昔もこれからも未来永劫、共にある
そのことが、ゆるんだ目隠しのスキマから見えてくるようになる
わたしわたしわたし……
そう思い込んでるその「わたし」はとてもとても小さい
自分を「わたしなんて」って思わせるほどに小さい、黒い卵の殻
それが、左脳が作り出した思考である自分をそれそのものだと思っている「わたし」
その黒い卵の殻にヒビを入れる
それが、意識をカラダ(本来の自分=神)に置くこと
意識をカラダに置くとは、呼吸を感じること、胃の重みや内臓のあたたかさ、皮膚にあたる風や空気の感覚、足の裏が地面に着いている感覚
そういうカラダの感覚に意識を向けること
その黒い卵の殻をよく見ると、細かなヒビが入っていることに気づくこと
それが「わたし」という左脳の自動思考に気がつくこと
その黒い卵の殻に閉じ込められている本来の自分に気づくこと
気づけば気づくほど、そのヒビは大きくなる、殻はどんどん薄くもろくなっていく
最後の最後に、薄皮が残る
わかりやすい「わたし」という左脳思考ではなく、あまりにもピッッッタリと自分にくっついているので気づきにくい、薄皮になっている「わたし」
でも、その頃には黒い殻はもう無くなっているから
「間」のときを大事に味わって
ゆるゆるゆると、ゆるんで
そうしていると、いつのときか、ハッと気づく
薄皮が自分と一体化していたことに、気づく
気づいたら、終わりをつげる
気づいたら、もう、さようなら
そこから
その小さな小さな黒い殻も薄皮も、今日この日まで生き抜くために、自分を守ってくれていたことに気づく
そんな黒い卵も、その中にいた頃の自分も、愛しくて愛しくてたまらなくなる
左脳思考まみれだったときの自分もまた、必要だった
すべての苦しみも怒りも嫉妬も、困難な出来事も、ぜんぶ必要で起こってきたと認められる
腑に落ちていく
そのすべてが、得難いパーフェクトな経験であり、この世のどんなものよりも尊い至高の宝物だったんだと、喜びがあふれる
そのとき、世界中で一番、自分が自分を大好きになる
誰と比べることもない、比較ではない、ただただこのイノチが大好きなんだ、ということが起こる
このイノチに生まれてきて、ブラヴォー!と拍手が起こる
そのとき
すべてが、このイノチも含むぜんぶが、大宇宙や神やそういうものと等価値であり
このイノチがその大いなる仕組みの中にいて、その大いなる仕組みそのものであると、わかる
そのとき、他人も、木も花も石も海も山も、ゾウもキリンもイルカもマグロもタコもぜんぶその大いなる仕組みの中で、そのものであるという「個性」を持つ「個」であり、同時に大いなる仕組みそのものだとわかる
「個」であり、そして大いなる仕組みそのものである
その両方をたずさえながら生きていける
その中で、個性を存分に活かして遊んでいける
今まで通りの日常で
今まで以上の日常で
「個」と「個」の関係性の中で、共に遊んでいける
それが、きっと
この時代の、悟り
読んでくださり、ありがとうございます💙