人生を変える最大最強魔法
母の残り寿命を聞きに行ったことがある
荒れ狂う暴風雨のような母だった
ずっとその感情の荒波を一身に受け続けていた
サンドバッグだった
大人になって、さらにさらに大人になりきった年齢になっても、自分の人生がずっとずっと苦しいのは幼少期の家庭環境と母のせいだと思っていた
外で、社会で、どんなにハッピーなことがあっても、母と接した途端にそれはガラガラと崩れ落ち、また地獄に舞い戻された
愛されなかった人間は、これから先もずっと愛されないのだという事実を突きつけられ続けるようなことばかり起こった
それでも運命に抗うように
心理学から西洋医療から東洋医療からセラピーから、仕事も人間関係も健康も、なにもかもについて自分が至らないからダメ人間だから問題ばかりなのだと、改善のため必死で取り組み、学んできた
それでももう、打つ手が見当たらない、というところまできたとき
「あと何年、わたしは絶望と共に迎える朝を数えねばならないのか?」
という問いが生まれた
地獄のようなこの人生は、いつ終わってくれるのだろう?
また、その問いに答えるように「寿命を教えてくれる人がいる」という噂を聞き、その人に会いに行ってみた
◇
結果的に母の寿命もわたしの寿命も教えてもらえなかった
教えてもらったという人は、どうやらそれを知る必要があったらしいが、わたしにはなかったようだ
しかし、そこで一つの物語をもらった
母とわたしは昔、ドイツの孤児で、14歳くらいの兄(母)と4歳くらいの弟(わたし)
『火垂るの墓』の二人と同じ年齢である
兄は弟を育てながら食いつなぐため、ありとあらゆる子どもにできる限りの仕事をした
村の外れの打ち捨てられた馬小屋のような家
ぼろぼろになるまで働いて、ようやく手に入れた一つのパン
まだなにもわからない弟は「パンはもうヤだ!」と言ったり、気ままに遊びに出かけてそのまま寝こけてしまい、疲れ果てて帰った兄は弟が見当たらず夜中まで探し回ったりすることも多々あった
子どもにできる仕事も賃金もたかが知れている
石を拾ったり、ゴミを拾ったり
教育もまともに受けていない
いいように使われ、だまされることも多々あったろう
当然、兄の怒りが爆発することもあったろうけど、相手は4歳
感情をぶつけたところで、何を言ったところで、弟には意味がわからない
それも14歳にもなっていたらわかっているから、どうしようもない
どうしようもない人生を、兄も弟も送った
それでも兄の中には恨みが残る
──弟さえ、いなければ。俺の人生はもう少しマシだったのではないか
それでも、その兄が弟を捨てきれなかったことも
今、わたしが母という存在を切りきれないことも
全部、愛情深さゆえ
わたしは、泣いた
ずっと泣いていた
そのもらった物語が嘘でもなんでもよかった
前世なんてものもないのかもしれない
でも、嘘であったとしても、それを聞いた途端、人生の謎がスッと解けたように感じた
その感じたということが、わたしにとって完全に真実だった
◇
「兄であるお母さんは、まともに愛情をもらったことがない
だから、人生の苦しさから脱したいのであれば、これからの人生であなたが愛情を注いで返していくしかない
それは砂漠に一滴づつ水を注ぐようなもので、今生だけでは達成できないかもしれない
けど、いま苦しくて人生を変えたいのであれば、やるしかない
そのために、今、母と娘で生まれてきた」
そんな風に、その人は言った
わたしは、「母親」には出来ないけど「孤児の14歳の男の子」にならできる
と、思った
それから、母を思春期の中二男子だと思って接した
なにをどう言われようとされようと「ありがとう」と返した
そこまでしたら嫌味かな?と思ったりもするくらい、とにかく「ありがとう」と言った
愚痴や嫌な話も「うんうん、そうだね」と聞き、それはさすがに違うかもというようなことでも「そうかもしれないね(肯定はしてないけど否定もしない)」と聞いた
とにかく「ありがとう」
そして、絶対に否定しない
母と四六時中いるなんてありえない、無理
そんな状態なのに温泉旅行にも連れて行った
自分は一つも楽しくないけれど、一つも楽しいことをしたことがない孤児の中二男子を楽しませる「仕事」なのだと思い込めばできた
成果は「人生の苦しみから解き放たれる(かもしれない)」だと思えば、かなりの高報酬仕事だ
そう思って、やりきった
自分にそなわった想像力と自己洗脳力(思い込み)を最大限に発揮した
◇
それから1年半ほど経った
なにもかもに「ありがとう」と返すことも、相手のいうことを否定せず肯定することも、いつのまにか癖のように身についてしまっていた
ある日、母が言った
「なんか最近、生きててしあわせって思うねん」
そんな言葉を生まれてはじめて聞いた
母は、別人になっていた
え?
誰これ?
機嫌が悪い日が、ほぼ無くなっていた
なんだか朗らかである
なので、一緒にいてもキツくない
そして、わたしのやることなすこと肯定してくれる(今までは全否定)
わたしの話を聞いてくれる
(今までは途中で母の話に持っていかれる)
そして、わたしのやりたいことを応援し、手助けさえしてくれはじめた
もしかして
もしかして
もしかしてだけど……
ミッション…………完了したんじゃねーの……???
そこからもう、5年は経っている
母は違う人になったままだ
母が荒れ狂う暴風雨だった、毒親であり機能不全家族だったことは、わたしにはもはや、おぼろげな記憶としてしかなくなってしまった
だって眼の前にいる母は、その記憶の人物とは別人なのだ
昔々に見たような・見なかったかのような映画のワンシーン
遠い遠い過去に見た夢
それくらいに遠い、記憶
感謝と肯定・受容という、テクニック
そういう、姿勢
そういう、治療
この物語は、ある人には魔法のように幻術のように効くかもしれないし
ある人にはただのおとぎ話のようにも聞こえるだろう
それでいい
このことは、もう、終わった物語
わたしから去り行く物語
だから、綴っておく
◇
最近、ふと浮かんだ
あの、母へ投げかけた無数の「ありがとう」の言葉たち
「うんうん、そうだね」「そうかもしれないね」という肯定の言葉たち
全部、自分に言ってたのだ
世界の中心は常に他者ではなく自分であり
自分の状態が世界を創っている
砂漠に一滴づつ水を注ぐ
それを、自分で自分の心にやっていたのだ
変わったのは母ではなく
(確かに変わったけれども)
わたし自身であり、わたしという世界だったのだ
◇
本で、死刑囚と婚姻関係を結ぶ人の言葉を読んだ
「彼は、人生で一度も、まっとうな愛情を誰かに向けてもらったことがないんです」
永山則夫という人物について知り、わがこと、わが母のことのように感じた
深くは書かないが、一歩違えば、誰もがその道をゆくのだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/永山則夫
母はその親に、その親たちはその親たちに……何世代にも続く連鎖の中で
まっとうな愛情を向けてもらう機会が乏しかった、無かった
個人で抗うことの難しい、そうならざるを得ない社会の中で、そういうことが起こってきた
母の母、つまり祖母は女手一つで朝から晩まで働き、もちろん出産も家事も育児もして5人の子どもを育てた
祖父はずっと病床にいた
母は中学を卒業してすぐに集団就職に出てきた
そこに、まっとうな愛情を受ける・与える時間、母と子がしっかりと向き合う時間など、あったろうか
◇
誰かに愛情を向けてもらえること、もらえたことは幸いである
けれど、そうでなかったとしても
今この時代は、今この瞬間から、自分で自分に愛情を向けることができる
そしてそのパワーが何倍にもなって、さらなるスピードを加速させて自分を変化させる
そうして個人を通って倍増したパワーが、さらにまた勢いを増して他の誰かへと、世界中に巡っていく時代なのだ
お読みいただき、ありがとうございます💙