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スカートのずり上がりを教えてあげることをためらってしまった朝考えた、お節介のあり方

謎の葛藤の正体

今朝、前を歩いていた中学生のスカートが少しずり上がってしまっていた。
どうしよう、、これ言ったほうがいいかね。でもちょっと気まずいしまあ電車に乗るタイミングで気づくよな。でもこのままなのなんだか可哀想だしな、、
という葛藤を朝から感じるハメになった。
結論私がとった行動は、前を歩いていた中学生に声をかけて重そうなリュックを少しだけ持ってあげてスカートを直すことだったけど、ふと思えば、なぜ葛藤していたんだろうなと思った。

その後すぐカフェに入って、お会計をする時、店員さんがちょっとバタバタしてハサミを客側に落としてしまった。
そのとき、すごく焦ったように「申し訳ございません、すみません」って何度も言われて、なんだかそれがすごく違和感だった。
なんで謝らなきゃいけないんだっけこれ、と思ってしまった。誰かが嫌な気持ちになる可能性があるからだろうけど、それってどんな人が嫌な気持ちになるんだろう。

私がいい人、みたいなことを言いたいわけでは決してなくて、
日常の中で人に対する謎な遠慮、過度な気遣いが存在するんだろうな、、と思った。自分の善意に対して、ネガティブな想像をする人が多いのかもしれない。
確かに誰かに何かをしてあげるときは、相手の気持ちや状況を多分に想像する必要がある。何かして逆に迷惑だったらしないほうがいいと思ってしまうこともある。
(もちろん、私が比較的若い女性じゃなかったら、一つ目の件で中学生の女の子を怖がらせていたかもしれないし。
カフェでハサミが私の手を切ってしまうことになる可能性を考えたら逆の立場の時私も同じくらい焦るかもしれないけど。。)

けどその想像は、相手のことを思ったものなのか、自己保身なのかをちゃんと考えたい。ごめんねって思ったから言うというより、ごめんねって言っておかないと後からまずいから。面倒だから言うみたいな。

自己保身の遠慮や気遣いの先に待っているのは、なんだかとても冷たい社会だ。
もちろん面倒なことは避けたい。でも自己保身で動かないくらいなら行動を選択したいなと個人的には思った。善意にもならないような善意を表出することを恐れないようになったら、もう少し温かい社会になる気がする。

実現したいのはおばあちゃんのお節介、なのかも

ある意味実家の安心感は、良かれと思ってとってくれる家族の「おせっかい行動」によるものだと思っていて、上記の「温かい社会」はそのおせっかい空間のことなのかなと思う。家族は過ごす時間の中でチューニングできるが、他人とはチューニングが難しいため、そのためのおせっかいリテラシーは慎重に身につける必要がありそうだけど。

このおせっかいリテラシーの磨き方や、おせっかい空間のあり方のバランスは探求を続けたい。

素直な自己表現

私はだいぶ性善説なので、みんなが素直になったら「おせっかい空間」が一旦実現されると思っている。私が実現したいのはその空間だし、その前提にあるひとりひとりの素直さを引き出すことに自分の力を使いたい。もう少し人は自分の感情に素直に「ありがとう」、「ごめんね」、「これが好き、嫌い」を安心して言えるようになったらいい。

「人生の試行錯誤を楽しめる人を増やす」という私の理念の根底にあるのは等身大の自分を愛するということだけど、素直な自己表現ができるということは、等身大の自分を愛するということの一つだと考えている。

素直な自己表現はやっぱりハードルが高い人もいる。私もまだ少し怖い。ただ、自分を出せる人は確かにいて、そういう人の共通点はやっぱり思ったことを言ってくれて、おせっかいしてくれる人だと思う。

まず今は自分が素直であり、私と話すときくらいは周りの人も素直な自分でいられるように努めることしかできないけど、なにかインパクトを起こしたいと思う。
どうしたらそのモメンタムが起きていくのか、思考と試行を続けたい。


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