目にする景色の向こう側 後編
一夜明けて朝早く、子どもたちが登校してくる音が聞こえ始めた。バイクで大人に送ってもらっている子もいる。この小さな集落にしては大きい学校だと思っていたが、恐らく他の集落も含めた、辺り一体の子どもたちが皆この学校に通っているようだった。
テントを片付けて出発の準備をしていると、始業まで時間があるのか、子ども達が出てきた。一定の距離を保ちながら、塀の向こう側から私たちを観察している。何かを尋ねてくるわけでもなく、ヒソヒソと小さな声で何か話しながら、楽しそうに、不思議そうに、こちらを見ている。
草原が広がる山々以外に、視界に入るものはない場所にある、小さな学校。毎日通う学校の校庭に着くと、自転車で来たらしい外国人の大人2人がテントで眠っている。休み時間でまた校庭に出てみると、今度は大荷物を片付け始めている。子どもじゃなくても、物珍しくて観察したくもなるだろう。
こちらから話しかけてみたが、恥ずかしいのかクスクス笑って、はにかむばかりで何も答えてはくれない。写真は数枚撮らせてくれた。カメラを向けると整列し直してくれて、笑顔はやめる。写真は笑顔でというのは恐らく西洋の文化で、真顔で映るほうが世界基準なのではないかと思う。
いつの間にか全員いなくなっていた。授業が始まったのだろうか。片付けもほとんど終わりに近付いたところで、1人の女の子が戻ってきて、言った。お金ちょうだい。
またか。しかも今度は6歳くらいの子。小遣いぐらい少しあげたい気持ちが込み上げるが、ぐっと堪える。お金は誰かに頼めばもらえると学んではいけない。生き延びる手段を他人にすがっているだけでは、長くもたない。可能性が広がっていかない。悪い人に利用されてしまう。
中南米の田舎では、小さな子どもが家畜の放牧を手伝っている。都市では店番をする子供は当たり前で、道路工事を手伝う子、1人でお菓子の路上販売をする子も目にする。東南アジアでよく見た、観光客にお金をせびる子供等に比べると、中南米では初期投資をする余裕があって、多少はましだと言えるのかもしれない。それでも、労働する子供がラテンアメリカには本当に多い。
一度メキシコで、チェーン店入り口の手動ドアを開けて小銭稼ぎをしている子に、硬貨を支払ったことがある。受け取るとすぐにコンビニに走り、お菓子とコーラを手にとって、また手動ドアの横に座って食べながら、次の客を待っていた。お腹が空いているのかと思っていたが、そうではなかった。親に指示されているのか、誰かがやっているのを見て自分で始めたのか。どちらにしても、日本で言うと小学校高学年のような年齢で、その時は平日の昼間だった。本来なら学校に行っていなくてはならないはずだろう。
集落の校庭で撮った写真を改めて見てみると、7人いた子供等の内、6人が女の子だった。男の子は働きに出ているのかもしれない。つい日本の感覚で、親の手伝いをして偉いねと言いたくなるが、そういうことじゃなく、本当は学校に行く余裕が無いか、そもそも皆が学習できるような学校制度が整っていないのかもしれない。そもそも、働かせる目的で産み落とされた可能性だってある。
同じ労働でも、空いた時間での手伝いと、それしか選択肢が無い場合では、話が全く違ってくる。当たり前のように、子どもはたくさん遊んで勉強するべきだと私は考えるが、そんなのは恵まれたごく一部の人の常識であり特権であって、それが当たり前じゃない世界のほうが広い。属している集団や家族によって価値が違い、大事にしてる事、やらなくてはならない事、現実に出来る事が変わってくる。
ある北アメリカ先住民の教えに、7世代先の子孫の事まで考えて行動せよ、というのがあるという。つい自分の目の前の事に追われてしまいそうになるが、なるべく広く大きく先を見て、想像しないといけない。未来の子供達に申し訳が立たない。今いる世界がこれ以上悪くならないよう、小さな違和感に目をつぶらず、考える事をやめないでいようと思った。