『裸の聖書』26.『神聖なる』屠殺とフェイクニュース:実在しない出エジプト記の紅海 -2
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「残念だが、聖書には紅海のことについて何も書かれていない」
「神学的解釈が常に帰結してきたような壮大さは微塵もなかった」
ハリウッド映画でわたしたちの集合的な想像力に刻み込まれた出エジプト記の有名な一節、海が真っ二つに割れるあの話はフェイクニュースってこと?
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『神聖なる』屠殺とフェイクニュース:
実在しない出エジプト記の紅海 -2
このようにテキストを詳しく見てみると、聖書が通常語られるのとはまったく違った『響き』を持つことは明らかだ。
聖書をめったに参照しない信者の聴衆のために、かなり漠然とした形で要約されることが多いのだ。
ヘブライ語で多くの解釈上の誤解を避けることが可能なら、現代の言語で同じ読み方をすれば、それらの聖句が何を語っているのかを明確に理解することができる。
いずれにせよ、ある種の超越に向けたスピリチュアルな高揚という概念についてはまったく触れられていない。
しかし、数え切れないほどの残虐行為に関する容赦ない描写は多く、日常生活で従うべき実際的な規則には多大な注意が払われている。
この純粋に社会的な規範の詳細な体系が、まさに出エジプト記に現れている。
これはナイル川流域からヨルダン川流域への東方への移住の物語である。伝統的に、この物語は冒険的で、勇敢で、危険な逃避行として私たちに伝えられ、紅海を渡るという壮大な『奇跡』まで登場する。
マウロ・ビグリーノは首を横に振る。すべて嘘であり、すべてが作り話だ。
「しかし、それはわたしが言っているのではなく、聖書そのものがそう言っているのだ。」
ビグリーノのエッセイを読んでいると、容赦ない破壊活動を目の当たりにしているような氣分になる。聖書ではなく、神学によって歪められた『不誠実な 』物語の破壊である。
紅海の驚異的な出来事を祝う図像を前にして畏敬の念を抱いたことのない人は手を挙げてほしい:獰猛なエジプトのファラオに追われる民が無傷で通り過ぎることができるように、波が立ち上がり海が真っ二つに割れるのだ。
これを非常によく表しているのが、おそらくギルランダイオの作品であろう、システィーナ礼拝堂を飾る壮大な絵画である。
残念だが、聖書には紅海のことについて何も書かれていない、とビグリーノは微笑む。
それは一体どういう意味?
「本当だ。旧約聖書には紅海の記述はない。出エジプト記の有名な一節には、『葦の海』としか書かれていない。」
『ヤム・スフ』、正確には、湿地帯の葦原だ。
要するに、特殊効果はない。
「基本的に、イスラエルの民が渡ったのは葦原であり、聖書に明示されている特定の風が一晩中吹くと、浅瀬が開いて渡ることができたのだ。」
つまり、単純な浅瀬だ。
「そうだ。その特定の空氣の流れのおかげで、風の影響が止み水が戻って覆われる前に、その場所を渡ることができたのだ。」
がっかりした?
そうかもしれないが、聖書が実際に語っているのはそういうことだ。
「その通りだ。だから、この横断には、神学的解釈が常に帰結してきたような壮大さは微塵もなかった。」
実際のところ、ハリウッドは間違いなく躊躇なくその巨大な出来事を強調し、わたしたちの集合的な想像力に刻み込んできた。
出エジプト記:ドリームワークスの魔法使いたちは、1998年に『プリンス・オブ・エジプト』でそれをアニメ映画の傑作に仕立てあげた。しかし、このドラマ化の先駆けは、歴史に名を残した映画:伝説の監督セシル・B・デミルによる『十戒』である。
それはずっと昔、1956年のことである。パラマウントの超大作でモーセを演じたのは、ヒーローの原型ともいえるスーパースター、チャールトン・ヘストンだった。
しかし、本物のモーセとは何者だったのだろうか?
「そもそも『本物のモーセ』について語るのは難しい」とビグリーノは言う。
「モーセの人物像は、他の多くの聖書の人物像同様に、非常に物議を醸している。そして、わたしたちは彼が存在したと『仮定する』ことしかできない。」
ここでもか。では、紅海について一度も言及されていないのであれば、今度はモーセも『消える』のか?
正確には、そうではない。
聖書では、エジプトとアラビア半島を隔てる海とは異なり、モーセは少なくとも登場人物としては実際に登場している。彼の史実性がとらえどころがないのだ。
「この人物像を排除すれば、その後の歴史もすべて排除しなければならない。なぜなら、モーセこそが、わたしたちの知るイスラエル民族の真の創始者だからだ。」
では、彼は何者だったのか?
「もし彼が実在したなら、エジプト人だったに違いない。聖書自体がそう言っている。そして明らかに軍の司令官のような者だったに違いないのだ。彼はその地域のあらゆる特質に関する知識があったため、ヤハウェにとって特に有用で、彼を戦場での指導者として、また民との仲介者として利用していた。」
しかし、彼は本当にエジプトから逃亡していたのか、それともこの脱出はエジプト人と合意の上だったのか?
「聖書には、モーセがエジプトから逃亡し、彼の民を奴隷制から解放したと書かれている。しかし実際には、聖書以外の多くのユダヤ人の物語が、エジプトからの脱出が非常に特殊な方法で、控えめに言っても奇妙な特徴をもって行われたことも考慮すると、それは決して実際の奴隷制の問題ではなかったことを物語っている。」
ビグリーノは、民はエジプトの領土を放棄し、多くの動物、そして何よりも金を含む大量の貴金属を持ち出したと指摘する。「彼らが奴隷であったなら、このようなことは不可能だっただろう。」
また、エジプト軍がモーセたちの脱出を大いに促進した可能性も否定できないように思われる。
「ユダヤ人の物語によれば、ファラオは旅の最初の部分で彼らの後を追いかけたとさえ言っている。彼らを『追う』ためではなく、彼らが引き返して戻ってこないことを確認するためである。」
それだけではない:「モーセは、武装したレビ族の男たちを連れて行った。これは起こりうる反乱を鎮圧し、民が以前の状態に戻るのを防ぐために必要だったのだ。」
それは真実なのだろうか?
「実際、聖書は、ユダヤの民からの多くの不満について語っている。基本的に、彼らは食べ物があり平和に暮らしていたので、エジプトにいる方が幸せだと言っていたのだ。」
では、なぜ彼らはエジプトを離れたのか?
「このことから、ヤハウェとモーセが、民を納得させるために力ずくで行動したと思われる。彼らは、自分たちがもっと良い場所に導いているのだと告げたのかもしれない。」
あの奇妙な移住者たちは本当は誰だったのか、不思議に思う人もいるだろう。
「ユダヤ人ついて一般的に言えば、エジプトにいたのはヤコブの子孫、イスラエル人だけだったと言わざるを得ない。」
マウロ・ビグリーノは、当時のユダヤ人の群れの人口地理学的特徴について明確にしている:もちろん、聖書の民のすべてがエジプトに移住したわけではない。
「アブラハム一族の他の子孫は、ハガルの子孫やアブラハムの孫であるロトの子孫など、カナンの地に住んでいた。彼らは、モーセとヤハウェがヤコブの子孫を連れて来るつもりだった土地に住んでいた。後にイスラエルと改名された土地である。」
ヨルダン川のほとりにいたのは当然彼らだけではなかった。
「カナンに住んでいたのはアマレク人、モアブ人、アンモン人であり、彼らはアブラハムと同じ起源の一族に属していたので、ユダヤ人だった。」
エジプトからの『移住者』」はどれくらいいたのだろうか?
「エジプトから逃れた人々の数については、戦闘年齢の男性だけで60万人だったと聖書は述べている。これに子ども、女性、老人を加えなければならない。聖書はまた、追放された人々の中には、さまざまな民族、明らかに他の臣民、イスラエルの部族に属さない人々が含まれており、このエジプトからの大いなる脱出に加わったと述べている。」
補足質問:エジプトの支配はどこまで及んでいたのだろうか?
「まさにそれだ。当時、カナンの地そのものがエジプトの支配下にあったことを付け加えておかなければならない。なので、モーセの民が『エジプトから逃れた』と言うのは不適切に思える。なぜなら、実際には彼らはファラオが支配する領土に住んでいたからだ。」
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『神聖なる』屠殺とフェイクニュース:
実在しない出エジプト記の紅海 -3 へ続く
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