やっと『罪と罰』読んだ
かなりとりとめのないことを書くんだけど、やっぱり信仰の問題が中心にあって、なんかそういう意味ではメルヴィルとちょっと似てる、と思う(そう思うのは私が無知だからですが)。けどドストエフスキーの場合は、絶対的なものとしての神がいるかどうか、ではなくて、倫理を可能にするものとしての信仰の可能性を問うているんじゃないかな。
そのような信仰は人間と人間の関係、なにか劇的な出来事が人と人を結びつけてしまうことのなかに探られている。でそれが最後に愛、という形でまとめられるんだけども、その相手というのがラスコーリニコフが自分の殺人を告白したソーニャで、彼女をラスコーリニコフはめちゃくちゃ試し、それでも彼の側を離れなかったソーニャにラスコーリニコフはひれ伏すわけですね。
罪を許すのではなく罪を犯したラスコーリニコフを受け入れようとするソーニャがすなわち神として登場するわけではないんだけど、なんかこういう啓示的な瞬間っていうのは小説が100年とか200年とかのあいだどっかで取り組んでいることのような気がする。これはもうちょっといつか調べたい。
ラスコーリニコフが殺したのは金貸しの老婆とたまたま帰ってきてしまったその妹で、その妹がソーニャと仲がよかったことを知ったときに、彼はソーニャに聖書のラザロの復活のところを音読させる場面がある。聖書の音読、あるいは聖書への帰依が、彼女のもっとも内側にあるもので、それを開示する苦痛を察しながらラスコーリニコフはなお強いるし、ソーニャはそれを望んでもいる。死んで埋葬された人が生き返るというもっともありえそうにない奇跡と、それを可能にする信仰告白を含む章を読むときの彼女は確信しているし、それがその後の関係を決定的にする。
一方で小説の書き手のような人物が敗れ去っている……というか片隅に追いやられることになることにも気付く。プロファイリングっぽい手法で殺人事件の筋書きを"トレース"するポルフィーリーはラスコーリニコフに"But who are you? What prophet are you? From the height of what majestic calm do you proclaim these words of wisdom?" (643)と問われるように、1つ上の次元と接続しうる、作者的な形象で、ラスコーリニコフとたいそう緊迫感のある場面を演じるのだけれど、彼は結局ポルフィーリーには自白しないし、それは決定的な要因にはならない。作者が神ではない、というところに読みやすさがある、という馬鹿みたいな感想を抱いた。
Fyodor Dostoyevsky _Crime and Punishment_ Constance Garnett, trans. (拾いもののPDFで読んだので書誌情報が全然分からん……)
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