食について語るバルト
食べることにまつわる議論でロラン・バルトが参照されることは少ない、というか見たことがない。摂食障害をめぐる議論でも、食とエロティシズムを扱ったミニコミでもそうだ。参照されない一方で、バルトが「現代における食品摂取の社会心理学のために」 で書いていることは今のそういう語りにおいても通底している気がする。要は目新しいわけではなく、バルトにとって重要だったわけでもなかろうし、目の覚めるようなエッセイでもなく、ただ意外でもあったのでちょっと書く。
食物の意味を構造主義的に分析することを提案したもので、アメリカではフランスの2倍の砂糖が消費されているという事実から始まる。そのことを砂糖の消費量と生活水準の比例関係や、オランダ・ドイツ系移民の風習に由来するものと結びつけることもできるが、そうはしない。あるものを食べることは、それが食べられている世界で、ある仕方で生きることなのだ。
砂糖にしろ、ぶどう酒にしろ、こうした過剰な物質は、また、制度でもあるのだ。そしてこれらの制度は、必然的にあるイメージを、夢を、タブーを、好みを、選択を、価値を含意する。フランスには、ぶどう酒の歌がどれほどあることだろう? わたしは「シュガー・タイム」というアメリカのよく口ずさまれる歌を思い出す。砂糖は一つの時間であり、世界の一つの範疇なのである。(p. 108)
(すごい歌だ、糖質制限主義者が聞いたら卒倒するんじゃないか)
そしてそれは、ずっとそうだったのではない。経済状態によって食べるものが決まっていた時代から、好み、思想、栄養学が食品の選択に大きな役割を果たすようになったことをM.ペロという人が指摘しているらしい。すると消費者はある銘柄に忠実になり、その忠実さを「自然な」理由をつけて正当化し、生産物を多様化するようになるけれど、そこに観察できる違いはほとんどない。こうしたときに、購入され、消費される食品は、「ある状況を要約し、伝達し、ある情報を構成し、意味をもつ」(111)。というのは、指標となるというだけでなく、食べ物全体がある集団のなかで通用する記号となる、あるコミュニケーションの機能単位になる、ということらしい。必需品が生産・消費の規範のもとに置かれると、記号の機能を「本来の」機能から切り離すことができなくなる。このときから、食品によるコミュニケーションが打ち立てられる。
で、食べ物が体系であるとしたらその単位がどのようなものかを考えるのだが、それを言語学と同じやり方で行う。あるものが別のものに移行した場合に意味作用の変化をもたらすかどうか、もたらすならそれを有意単位とみなす、というものだ。白パンと黒パン、普通のパンと食パンは記号内容が異なる。味覚では甘みと苦みの対立があり、質感ではクリーミーであるとか乾いているとかがあり、風味についてはそれが民族的な記号内容になる。
さらに大きくて微妙なものとして、食べ物の精神(エスプリ)なるものが提案される。それは幾つかの食品特徴の全体が一つの要素を構成するということで、「おそらく言語の超線分的な音調単位に似たものとなろう」と書いてあるけどここは全然分からない。そのエスプリというのが、例えば古代ギリシャにおける「ガノス」なるもので、この観念は滋味、輝き、水分によって構成される。ぶどう酒はぶどうのガノスであり、蜂蜜にはガノスがあるらしい。おもしろい。
で冒頭に出てきたアメリカの例を挙げると、砂糖味に対立するのが、ビールにもポテチにも適用されるクリスピーというかなり幅の広い間隔であるという。論理的、物理的な範囲をそういった観念はたやすく越えてしまう。
そうして、食べ物に託されたテーマや状況の全体、すなわち世界が取り出されているのが食品広告である。食品広告には、民族の過去のなかに分け入ることを可能にする回顧的機能があり、食品に性愛的価値を与えたり、疑似因果関係によって新しい状況に結びつけたりする。そして健康という概念のまわりに集められた曖昧な諸価値も食品広告のテーマとなる。
健康というのは、神話的には、肉体と精神のあいだに設けられた単なる中継点であり、食べ物が非物質的な実在の秩序を物質的に意味するために利用する口実である。(p. 119)
体に力をつけるという食品の生理的機能は即座に昇華され、状況化される、とある。ものを食べるという行動は他のありとあらゆる行動を要約し、表示する。かつて祝祭的な使用状況だけを積極的に示していた食べ物が、労働、活動、余暇、などなどなどを表示するようになったことに現代性を見る。
というわけで、食べ物について議論するときにそれをまず構造化して分析することをバルトは求めるわけでした。
食(文化)を数字に「還元」する、みたいな仕方で諸々が批判されることがあるけれど、それもやっぱり意味であるっていうか、状況…に寄りに寄った数字だよなあと思う。
あと食品についている数字とそれにこだわらない方がいい理由(翻訳字幕風フレーズ)についてはTim Spectorという人のインタビューを聞いていてふむふむと思った。
ロラン・バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年。
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