ブルガーゴフ『巨匠とマルガリータ』水野忠夫訳
小説を読むときにその小説がどう位置付くのかを考えずに、考えずに済むことに甘んじながら読んで、あまつさえ感想を書いて、いる。読者がエクリチュールの多元性が収斂する場であり、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用がひとつも失われることなく記入される空間であるならば、その抽象的な場所と私とは遠いものだと思う。
全く無関係な文脈でこういうことを書いている人をみつけた。
…さんも、哲学入門の本を読むといいのではないかと思いました。「あえて無知戦略を貫き、手に負える範囲でつらつらと物事を考えるのが楽しい」という感覚は私にもあるので、強くお勧めするわけではありませんけど。
哲学の初歩:事実から当為は導出できない
だって分からないのだし、知らないのだし、と思いながら自分の感性と称するものを慈しんで、手に負える範囲だけで考えているのは居心地がよくて楽しくて、傷つかない。1つの歴史的な営みから下りるというのはそういうことだ。でもそんなの仮にも一度は文学研究を志した人間がしてていいことかよ、とも思うわけ。結局作品について語るのは難しいままだ。
モスクワに悪魔が訪れ、作家や舞台関係者が次々と酷い目に遭わされる。そういう場面は諷刺が効いているのだろうが、結局諷刺はされる対象からあまりに遠く不勉強で怠惰な私にとっては失効し、「人は……」くらいの解像度まで下がってしまう。
それよりもこの小説の一番ロマンチックなところ、それは原稿が(たとえ一度火にくべられても)燃えないものであること、悪魔になったマルガリータが「お前は許される」と言えば苦悩する罪人が許され、「お前は自由だ」という作者の一声で人物が解放されること。そうしたことが、イエスではなく悪魔の側にあるものとして語られること。多分そういうところを楽しめるだけ同じ地平にいるのだと思う。それは別にすばらしいことではないのかもしれないけど。
おそらくは悪魔によって書かされたもので作家となった巨匠の作品に対する特権的な立ち位置を考えるなら、上巻の末尾で「それでなくても、この真実の物語の第二部に移る時が訪れているのだ。私につづけ、読者よ」と呼びかけ、エピローグで「この真実に満ちた文章を書いている作者自身」と自称する全知の語り手を何者と考えればいいのだろう。
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