女言葉についての本のイントロを読むよ
Miyako Inoue, _Vicarious Language: Gender and Linguistic Modernity in Japan_のイントロまで読んだ。(なんでnoteはイタリック体が使えんのですか。)理論的背景を書いてあるところで、難しいし結局これだけじゃ内容が分からんし間違ってるかもしれないしよく理解できていないかもしれないので気になる人は原典をあたってくださいね。
女言葉はしばしば話題になるのだけど、(多分)最近の多くがそうであるように、女言葉には、あるいは女性の話し方にはこれこれの特徴があるといったことを調べる本ではない。そうではなくて、女言葉と言われているものは私たちが避けて通ることのできない社会的な知識の一部であるし、女言葉とみなされるものを自分のものとして(vicariousに)使うことで日本の女性が客体化され、評価され、研究され、標準かされる、それによって自他にとって統一的で理解可能な主体に仕立て上げられる。そのような言説空間、つまり実践、制度、表象、権力の複雑な総体として女言葉を理解しようとする本。
今「日本の」と書いたように、女言葉は日本文化に固有の伝統的なものとみなされている。具体例はわざわざ引かなくても想像できると思う。どのように女性が喋るかについての執拗な関心は、想像上の日本のアーキタイプ、そこに起源を持つ女性を仮構することと切り離せない。女言葉は西洋やモダニティに対立する、国家と伝統の象徴である。
しかし、そのような女言葉観において、極めて単純な事実が見過ごされている。それは、日本にいる多くの女性にとって女言葉は日常で使うものとして体系的に身につけることのないものであったということだ。文化的、階級的、地域的周縁にいる人々にとって、「男性と女性とは異なる話し方をする」ということは日常の経験に当てはまらない。地方で育った著者にとっての女言葉の経験は、テレビで話されている言葉。リカちゃん人形に喋らせる言葉、映画でみる吹き替えの白人女性の言葉、CMで商品を売る人の言葉、そして東京の言葉だった。つまり、女言葉との最初の出会いは身体がなく、合成されたコピーやイミテーションで、生身の人間が女言葉を使っているのを見たのはそれより後のことだった。コピーがオリジナルだった。という体験談もあとで語られる。
にも関わらず、なぜ女言葉は国家的なオブセッションであったのか。なぜ人々は女言葉に関する社会言語学的な知識を(再)生産することにやっきになるのか。なぜ多様な言語学的実践(地域的、階級的な言葉の違い)が、性別の二元論と一揃えの喋り方に還元されてしまうのか。このようなこだわりは、進歩や近代や伝統や中産階級や均一性といった比喩と同じように、日本が近代的な国民国家になろうとしたときに必要としたナラティブを支えるという再帰的な役割に由来する。女言葉は単にある機能やジェンダーマーカーを持った喋り方のセットではなく、日本で萌芽しつつあったモダニティ、資本主義、ナショナリズムの社会的形成と結び付くものであったということ。これは日本の近代化の経験、ジェンダー、そして言語使用のあいだにある歴史的かつ構造的なつながりを理解しようとする本である。
そういうわけで、女言葉は性差には還元できない、どころか、女言葉の外部にあると思われる経験こそがそれを本質的に構成している。階級、歴史、政治といったジェンダーバイナリーに回収されない要素は女言葉が標準化されたジェンダーを担うためには排除され、その外部におかれなければならなかった。このことを、著者はデリダの代補(supplement)概念を使って説明する。
それはそれではないものと違うことによってしか、それになれないのに、それがそれになったらそれではないものを排除する。しかし、それがそれになるためにはそれではないものが必要なのだから、それはもとから不完全で、それではないものはそれの外部にあるのではない。この、それではないものが代補。さらにバトラーを引いて、そのような代補(バトラーのabject)は主体が主体となるために棄却されたもので、副次的な位置、外部に追いやられるけれどそれは主体より遅れてきたものではありえないことを言う。そのような領域は、時間的な秩序を転覆することを可能にする地盤であり、「起源」が副次的なものだと主張するものへ根源的に依存していることを明るみに出す。
女言葉を喋るか喋らないかという二択が意味をなさない(周縁の)人々を代補=アブジェクトの位置にあるとするならば、そこからジェンダーバイナリーによって抑圧される以前の差異の痕跡を暴き出せるはずである。それによって女言葉という言説が包摂し損ねたものを暴き、時間的、空間的な起源とされるものを脅かし、同様に本質化された「日本文化」との安定した直接的な同一化を切り崩すことができる。
このためにはアブジェクトを人類学的な主体に仕立て上げるのではなく、アブジェクトの不在の存在と、女言葉の言説の中にある主体・起源・同一性の存在する不在を前景化することで、女言葉というカテゴリーが内側から認識的に失敗する瞬間を目の当たりにしたい。どのような社会的、経済的、歴史的条件によって、ある人々が女言葉の法に忠実に従うことに成功し、自らをオリジナルな女言葉の話し手でありその所有者であると考えるまでになるのかを問わなければならない。
女言葉とは何かを知ろうとすること、女性がどのように話すかについて語ることは純粋な好奇心からではありえない。女言葉を、知ることが可能な、理解可能な客体に仕立て上げることはまさに言説的な権力の作用である。なにかが女言葉とみなされることは固定したテクストや参照物に由来するのではなく、女言葉とそうでないものを二分する言説の境界設定に由来する。そうではなかったかもしれないものを理論的に仮定することが、アブジェクトの認識論の構造である。
というところでした。多分面白いことが書いてあるので、続きを読めたらちゃんとまたまとめたいですね。
Inoue, Miyako. _Vicarious Language: Gender and Linguistic Modernity in Japan_. 2006, U of California P.
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