幕末忍者
無足人、というのは伊賀藤堂家における侍の身分制度で、足、つまり俸禄を貰わないが、苗字帯刀が許される、という身分である。とはいえ、全くないわけでもなく、建前としては貰わぬものの、実際にはお小遣い程度の扶持米のようなものは支給されていた。下級である郷士よりは上で、また百姓身分とも違う、特別な身分であった。
このような身分制度は、多少の差異はあるが全国各地にあって、有名なのは土佐の白札と呼ばれるものである。これは、上士(土佐山内家家臣)と郷士(旧長曾我部家臣)との中間身分であり、衣類や家の大きさ、さらには傘の有無までが細かく規定されていて、非常に複雑である。
この身分制度の起こりは、薩摩などを除けばほぼ土着の者が多く、元和期における大名の配置転換によって出てきた問題で、これが江戸期における治安などに大きく影響した。
これが、泰平の時分であれば、さしたることはなかったであろうが、しかしこれが幕末となるとこの影響は大きくなるばかりであった。
だが、伊賀藤堂家は地理的な要因もあって、それほど大きな問題にはなっていない。
「それがしがで、ござりまするか」
澤村甚三郎は目を丸くした。領主である藤堂和泉守から登城するように命が下ったというのである。
「そうだ。殿直々の命である。用意整い次第、すぐに登城するように」
津城からの使者はそういって書状をたたみ、懐にしまうと、足早に玄関に向かった。甚三郎他、無足人の組衆が慌てて見送る。
「澤村、事は一刻を争うようだ。殿も待ちわびておるぞ」
と馬上の人となった使者は、馬に発破をかけ、手綱を少しだけ緩め、ぴしゃりと首筋を叩くと馬は少し嘶いて走り出した。皆が小さくなっていく使者に一礼をした後、
「甚三郎、お前何かやったのか」
他の無足人である庄屋たちが甚三郎に詰め寄った。
「いや、身に覚えはない。第一、我らは殿様から扶持米を貰っていない身分という事になっている。直々に言う道理がない」
「とはいえ、此処の御領主様だぞ。何かあったはずだ。思い出してみろ」
皆に急かさせたが、どうにも心当たりがない。しばらくじっと考え込むと、
「もしやすると、あれか」
と呟いた。
「何かあったか」
「ああ、先日の話だ。上士のお歴々が百姓女に乱暴しようとしたので、それを止めに入った事はあったが、まさかな」
いや、それに違いないと、無足人たちは頷いた。
「悪いのは向こうだ。いくら藤堂家家臣といって、女を手籠めにしていい道理はない。悪い事はしておらん」
「そうではない。確かにいいことをした。だが、その家臣とやらが讒言をして、おぬしを貶めているとしたらどうなる。あらぬ嫌疑をかけられ、ついには」
と無足人の一人が手刀で自分の首筋を、ちょう、と打った。斬首という意味であろう。
「な、ならば甚三郎を頓死という事にして」
「あほうか。ついさっき、殿様の使いの者が来て直々に話していたのに、にわかに信じられると思うか」
まあ待て、と甚三郎は皆を鎮めると、
「とにかく行くだけいこう。もし、殿様がそれによって目を曇らせれているとしたら、ちゃんと説いて来ればよい」
「しかし、そのように上手く行くものかよ」
「行かせなければならぬ。ま、何かあった時は、愚息を頼む」
甚三郎はそういうと屋敷に戻り、小袖を着替えて袴も旅支度の物に変え、刀の柄に柄袋をつけ、柳行李を風呂敷に包んでそれを背中で背負い、手甲脚絆をそれぞれ帯びて、津に向かった。
津では、参勤交代から領国に戻ってきていた藤堂和泉守が、領国の出納を確認しながら悪化する領国の経営を頭を悩ませていた。この頃になると、何処の大名家も参勤交代による財政圧迫と、不安定な米価経済によって、潤っている大名家は少ない。藤堂家の場合、大和に飛び領地を持つ、石高二十二万石と決して小さいわけではないが、それでも伊賀は山地であり、凶作、天候不順などにより財政は非常に厳しかった。ちなみに、藤堂家の借金は明治に変わる段階で、すでに二百十二万両という天文学的数字にまで膨れ上がっていた。現代の価値で二千百二十億という数字である。おそらく、自治体によっては破綻になるほどであろう。
甚三郎が津城に入って、門番に事の次第を告げると、門番は心得ていたようで
「中に入れ。殿がお待ちかねである」
といい、一人が注進するために向かった。しばらくして、先ほどの使者が
「来たか。こっちだ」
といって、甚三郎を案内した。
津城は、藩祖である藤堂高虎によって江戸初期に改修された平城で、岩田川を望む外堀に三カ所の大手門を伸ばし、その内側を二の丸、更に内堀をもうけて東丸と西丸に挟まれるように本丸があった。これを輪郭式あるいは回郭式といい、上空から見ると回の字の様に城が成っている。甚三郎は外堀の入り口から和泉守の居館に入った。
「おぬしは庭先に出よ」
といわれて、甚三郎は庭先に出た。
使者はそのまま本丸にいる和泉守の所に向かい、
「澤村甚三郎が庭先にて控えておりまする」
と口上を述べると、和泉守はそのまま腰を上げ、縁側に出た。柴垣近くに、甚三郎が平伏しているのを見つけて、
「ちこう」
と和泉守は扇子でもって引き寄せた。甚三郎が一歩だけにじり寄って、また平伏すると、
「いや、そうではない。もそっとちこう、ここに」
と庭先に出るための梯子段を叩いた。
甚三郎は、はっ、とより深く頭を下げると腰をほんの少し上げ、膝が砂利と擦れぬほどの低さで立ち、そのままつつ、と進みよった。和泉守は
「伊賀の腕は衰えておらぬか」
と、幾分か満足した様子で頷いたのもつかの間、すぐに真顔に戻ると
「江戸に行ってもらいたい」
「江戸、でござりまするか」
「左様。また、黒船がやってくる。今度は条約を結ぶことになるのだ、そこで、おぬしにペルリの艦隊を探ってもらいたい」
甚三郎は、はあ、とといって血の気を失いながらも、混乱する頭の中を整理しつつ辺りを見回している。
「つまり、ペルリの艦隊に潜り込んで、彼の連中の尻尾を掴め、と」
「何でもよい。向こうの機密と思われるものをいくつでも奪って参れ。これまで、諸外国とはほぼ付き合ってこなかった我らにとって、あのペルリという男と、あの船の集団は脅威である。その脅威を躱すためにはかのものを知る必要がある」
「しかし、それがしでなくとも、江戸には伊賀同心の者たちがおりますのに」
和泉守は甚三郎の問いに対して、息をつくと、
「この頼み事は一存ではない。老中阿部伊勢守様からの頼みであるのだ。江戸の連中は頼りにならんらしい。そこで、伊賀の中での選りすぐって、腕の立つ者を寄越すように言われているのだ。そこで、おぬしに白羽の矢を立てた」
と、和泉守は淡々としているが、事の重大さは甚三郎の体がよくわかっている。無論、断れるはずもなく、
「……江戸に向かいます」
「そうしてくれ。何分、困難ではあろうが、首尾よく行くことを願っておるぞ」
和泉守はそういうと、家臣に路銀を持ってこさせ、さらに
「これは無銘ではあるが、業物だ。持っていくがよい」
と、脇差を一振り与えた。
甚三郎は恭しく、両手を上にかざして脇差を貰い受けると、それを左手に持ち替えて腰を上げ、深く一礼すると
「これにて御免仕る」
といって、城を後にした。
甚三郎は屋敷に戻ると、
「女房殿」
と呼んだ。いつも、甚三郎はそう呼んでいるのである。女房殿こと小梅は、畳をするようにしながら甚三郎のいる土間上がりの所で膝を折ると、
「お勤めご苦労様に存じまする」
といって、両手をついて櫛を見せるように頭を下げた。
「うむ、とにかく飯にしてくれんか。腹が減ってな」
と、甚三郎が腹をさすっていると、小梅はそれを見て少し笑いながら、
「では少しはようございますが、昼餉の支度をさせましょう」
といって、下女を呼ぶと昼餉の支度をするように頼んだ。甚三郎は草鞋を解いて屋敷を上がり、そのまま奥の部屋に向かうと、
「これが何か分かるか」
といって、和泉守から貰い受けた脇差を見せた。小梅は目を見張り、
「随分と綺麗なものでございますね」
「ああ、これは御領主様から貰い受けた物だ」
というと、小梅は勘が鋭く働いたようで、
「何か、お役目でも命ぜられましたか」
と、心配そうに尋ねた。甚三郎は
「うむ、実はな、これから江戸に行かねばならぬ。江戸にペルリの艦隊がきているというのだ」
この頃になると、すでにペリー艦隊が浦賀に来てなかば恫喝的な外交を繰り広げていたことはすでに全国的に広がってはいたのだが、しかしまだその現実感は遠い山の向こうから見える焚火の煙の様にひどく疎いものであった。
「ですが、ペルリとか申す男の面構えは赤鬼のようじゃ、と世間では噂しておりまする。もしやすると、人を取って食うような男ではございませぬか」
小梅の心配そうな声に甚三郎は大笑いして、
「そのような事はあるまい」
といったが、すぐに顔を引き締めて言った。
「だが、ペルリという男の良からぬ噂は聞いておる。なるべく、会わぬようにしていくのが身を守ることになるかもしれん」
「そうなさいませ。それで、江戸へはいつ」
「明朝には出るつもりだ。何せ、江戸の御老中様から直々のお達しだそうだから、のんびりとはしておれまい」
小梅は心配そうな顔をした。
「どうしたのだ」
「ここから江戸は遠くございますれば、途中の街道には良からぬ連中がおるとの事でございますし、江戸は江戸で夷狄が町中を闊歩して歩いているとも風の噂で聞いたことがございます。さすれば、旦那様の身を案じているのです」
「そう心配せずともよい。我らはその昔、織田信長の猛攻から生き延びたのだぞ。それに比べればどうという事はあるまい。それに江戸に長逗留をするわけではない。お役目を終えたらすぐに戻ってくるゆえ、少しの辛抱じゃ」
といって、小梅の肩を軽く抱いてやった。
翌朝になって、甚三郎は裾を絞った袴に黒羽二重、行李を包んだ風呂敷を左肩と右わきを通して鳩尾のあたりで結び、手甲に脚絆という旅姿になると、そのまま草鞋を数足分、腰に結わえて玄関で草鞋を履いている。用意が整い、立ち上がると
「では、行ってくる。留守を頼む」
といって、小梅から編み笠を受け取ると、城に寄った。道中手形を手に入れるためである。
家老から手形を受け取った甚三郎は先ず伊賀山中を抜けるために伊賀街道から暗峠を抜けて、さらに奈良を縦断する山の辺の道から初瀬街道を通って伊勢に出た。ここから東海道につながるので、そのまま東海道を東下するのである。
その道中、江戸に近づけば近づくほど、外国人たちの噂が聞こえてくる。そのどれもがたわいのないものばかりで、
―― 夷狄は肉を食べるそうだ。
―― 夷狄は巨人のようで、家にはいる事が出来ない。
はたまた、ある噂に至っては、
―― 夷狄は人間の肉まで食するらしい。
という、どう考えても合点が行かぬようなことまで噂に上っている辺り、混乱の度合いは深そうである。
東海道の旅は順調で、江戸に着いたのは安政元年の二月の半ば、すでにペリーが条約締結の為に艦隊を率いてすでに日本近郊に到着している。
江戸に入ってから、甚三郎は藤堂家上屋敷に入った。無論、甚三郎の任務は江戸屋敷にも伝わっており、甚三郎が屋敷に入るなり、江戸家老席である中川蔵人から上を下へも置かぬようなもてなしぶりでもって迎えた。
中川蔵人は齢六十を少し越えた人物で、甚三郎とは親子ほど違う。それでも、
―― 老中からお役目を貰った名誉。
という事だけで、中川老人は顔がほころんでいる。
「伊賀からは遠かったであろう」
「はっ。それがしの如き下賤の者に、このような過分の歓待、かたじけのう存じまする」
座布団を外し、甚三郎は元結を見せるほどの深さで手をついて、頭を下げた。
「いやいや、それほど固くならんでよい。御老中からの話はこちらも伺うておる。手筈その他は一切そちに任せよ、との仰せである」
「はっ」
「で、ペルリが来るのは三月という事だそうだ。その時には彼の国の将軍からの親書を携えて来るという」
「狙うならば、その時でしょうかな」
甚三郎はすでに頭を上げている。
「まあ、その辺も含めておぬしが考えればよい。それまでは、ここを拠点にするがよい」
「承知仕りました」
ペリーが江戸湾から上陸し、武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(現在の神奈川県庁あたり)にやって来たのは三月四日の事である。そして、日本が初めての外国との条約である日米和親条約を結び、ここに所謂鎖国の禁が解かれたのである。
そして、それを祝して旗艦であるポーハタン号で、盛大な饗宴をする、という話が中川老人が齎された。
(その時だな)
甚三郎の長らく眠っていた忍びとしての嗅覚が澄んできたのである。
「して、澤村殿。いかがしてお役目を果たすおつもりか」
中川老人は興味津々という言葉を仮面につけたような表情で甚三郎に尋ねた。甚三郎は、
「御家中の、何でもよいのですが、羽織と袴を借り受けたく存ずる。それと、拵えの立派な太刀を一振り」
「なるほど、堂々と参って武士の力をまざまざと見せつけ乍ら、その余勢でもって調べる、と」
(それでは忍びではないし、そもそもそのような事をして無事で済むわけがない)
と、甚三郎の腹の中をそのまま吐露するわけにもいかず、甚三郎はただ苦笑している。
「まあ幾らかはあるであろうが、そのようなもので足りるのか」
「ええ、足ります」
甚三郎は頷いた。
家中の者の中に、甚三郎の体格に近い者が幸いいたため、甚三郎はその者の羽織袴を借りる事にし、拵えの太刀については中川老人から借り受けた。
ポータハン号での盛大な饗宴は、三月二十七日である。
それまでの甚三郎の行動は実は分かっていない部分が多い。無論、忍びである以上、その足跡が簡単に分かってしまうのは困ることであるが。
三月二十七日の饗宴に呼ばれた日本人は六十人ほどで、その筆頭は香山栄左衛門である。この人物は元々紀州藩士の息子として生まれたが、十五の時に江戸浦賀奉行所組与力の香山堅兵衛という人物の養子になり、そのまま浦賀奉行の与力として従事していた。ペリー艦隊が来た頃、栄左衛門は戸田伊豆守の命を受けて、「浦賀奉行」として、ペリーとの折衝に当たった人物である。その他、菊池富太郎、藤岡屋由蔵という人物の名前もある。ちなみに、この藤岡屋というのは商売の屋号で、本名は須藤由蔵といった。元々は露天の古本屋をやっていたのだが、それよりも江戸幕末から明治元年までの噂、事件、出来事を微に入り細に入った形で残した「藤岡屋日記」の作者である。
ペリー艦隊ポータハン号の饗宴は、まずペリーの船長室で行われた。
振る舞われた料理は藤岡屋日記に詳しく、
「パン、薄色及び黒色のカステラ、豚の肉、丸煮のカクラン鳥、獣の腸、饅頭、野菜(キュウリ、インゲン)、牛肉」
とある。その他に牛舌(牛タン)も出されたようで、藤岡屋は「絶品で第一の馳走」と称賛している。
無論、この料理を甚三郎も食べているのだが、甚三郎はパンを見た時、不思議な思いをした。軽くて柔らかく、試しに食べてみると何とも味気がない。これをメリケンはおいしそうに頬張るのである。
怪訝な顔をして、パンをにらんでいる甚三郎に、メリケン人が声をかけた。
「……」
甚三郎は英語が分かるわけもなく、ただ茫然としていると、メリケン人は近くにあったバスケットの中のパンを二つに割り、それをまた近くにあったマーガリンを掬い取って塗りたくった後、頬張って見せた。真似をしろ、と指さしている。
果たしてその通りにやってみると、先ほどの味気無さが嘘のように濃厚な味に変わった。思わず、甚三郎はバスケットの残りのパンを袖の中に入れた。メリケン人は笑いながら、
『何事もはじめてだから、しょうがない』
と英語で言ったのだが、無論甚三郎に通じる筈もない。
宴が盛り上がり始めたところで、通訳のメリケン人が、
「甲板に出ましょう。さらに催しを用意してあります」
と、すこし訛りの強い日本語で伝えると、皆がぞろぞろと甲板出ていった。甚三郎はすでに気配を消していた。
誰もいなくなったペリーの船長室を物色し始めた。甚三郎はテーブルの上にあった煙草を二葉と、蝋燭二本を袖の中に入れた。さらに今度はペリーの執務用の机に近づき、書類を片っ端から読み漁っている。
「何が書いていあるのかさっぱりわからん」
とぼやきながらも、甚三郎は目ぼしそうな書類を漁っている。
一方、甲板では米軍のオーケストラによる演奏が行われていた。日本にとって楽団というものを始めて体験した日である。この頃になると日米混然とした状況になっていて、そこには何人というような枠組みは一切なかった。ただ、饗宴を楽しんでいる者たちがそこにいただけである。
ペリーはこれを少し遠い目で見ていた。その顔は少しほころんでいるように見える。近くの者に
「私は執務に戻る。丁重に送り出すように」
と告げ、自らは執務室に戻っていった。
甚三郎はどの資料を持って行ってよいか分かるわけがなく、取ったのは書類が二通である。その時、ドアの開く金属音が聞こえた。
(しまった)
資料漁りに夢中になっていたために、事もあろうにペリーが戻ってくる頃合を見計らい損ねてしまった。ペリーがドアを開け、大きな顔と碇のような肩を差し込んだ時、甚三郎は机の上を漁っていた。ペリーは、
「何をしている」
と、ホルダーから拳銃を取り出したが、甚三郎は分からず、腰に手をかけている。ペリーは
「動くな」
と表情を厳しく見せて、つとめて低い声で言った。叫べば、人数がやってくるであろうし、この状態になれば互いに不信が生まれ、条約は破談してしまう恐れがあった。。ペリーの表情を汲み取った甚三郎はそのまま動かない。ペリーはゆっくりと部屋に入り、背中で押すようにドアを閉めた。
「何をしていた」
と思わず英語で尋ねてしまった。ペリーは、苦笑して、もう一度
「なにをしていたのですか」
と、今度は片言の日本語で話した。通訳の言葉を自然と聞き取っているうちに身に着けたのかもしれない。甚三郎は、
「何もしてない」
というほど愚かではない。ただ、黙っている。
「つまり、君がニンジャ、とかいう者か」
ペリーも何も知らぬわけではない。そのような者が遠い昔にいた、という程度の予備知識は入っている。
「だが、今こうして対面しているのは、誇りに思うべきか」
と、ペリーの言葉はいつの間にか英語に変わっていた。
「目的は何だ。条約締結を阻むものの差し金か、それともサムライの体裁とやらのためか」
ペリーは右手親指で回転式拳銃の撃鉄を引き上げた。弾倉の回る乾いた音が、緊張を呼ぶ。
甚三郎の喉がゆっくりと上下した。照準は、おそらく甚三郎の心の臓を狙っているであろう。
「私も、君を撃ちたくない。君の目的を、教えてくれればいいのだ」
甚三郎はゆっくりと机から離れようとしている。刹那、ドアを叩く音がした。
「誰だ」
「ウィリアムです。入ります、提督」
「そうしてくれ。不測の事態だ」
という言葉を聞いて、ペリーの通訳をしていたサミュエル・ウィリアムは、急いでドアを開けた。そして、状況を瞬時に悟った。
「まさか、エドの連中の仕業では」
「そうではないだろう。おそらく、我々の事情を探るように派遣されたスパイのようなものだろう」
「彼がニンジャ、だと」
「そういう事だ。君が来てくれて助かった。彼から目的を聞き出してもらいたい」
わかりました、とウィリアムは甚三郎とペリーの間に立つと、
「提督はこうおっしゃっております。貴方の目的を聞きたい、と」
甚三郎は内心、胸をなでおろした。だが、容易に伝えるわけにもいかず、ただ
「我は藤堂和泉家の者にて、名は澤村甚三郎保佑と申す」
「では、サワムラ。貴方の目的は何ですか」
「貴殿らの内情を探るためだ」
ウィリアムはこれを受けて、ペリーに耳打ちした。
「内情だと」
「恐らく、我々がどういう人物であるか、などといった事を調べることが目的なのでしょう。よく考えれば、我々が来るまでは、ここは諸外国との交流は制限していたのですから」
「つまり、もっと知りたい、という事か」
「多分、ですが」
「では、我々は危害を加えるつもりはなく、この国と友情を築きたいだけだ、と伝えてくれ」
ウィリアムから聞いた甚三郎は困惑した。そこまで高度な政治的任務だと思わなかったからである。ただ、知るための情報がいる、というだけの事だったからである。
「では、我らとは今後もよしなにしていただける、という事か」
ペリーは頷いた。その上で、
「そのポケットの中に入れた物を、見せなさい」
と撃鉄をゆっくりを寝かせながらウィリアムを通じて命じた。甚三郎は袖の中からパンと煙草、蝋燭と書類を取り出した。
「随分と、目を見張る成果だ」
とペリーは笑ったが、その意味は甚三郎にはわからない。そして紙片に目を通すと、
「全て持って行きたまえ。なんなら、パンをもう一つあげよう」
と、パンをもう一つ渡したのである。
「よろしいのか。我の行動は」
「気にするな、互い仕事だ。仕方ないさ」
ペリーは甚三郎の問にそう答えた。
宴が終わったのが、部屋の中からでもわかった。ペリーはウィリアムに甚三郎を送るように命じた。
ペリーは執務室で、堪え切れなくなった笑いを初めて顔を天井に突き上げるようにして笑ったのである。
暫くして、ウィリアムが戻って来た。
「あのまま、帰してよかったのでしょうか」
「構わんさ。大したことではない」
「あの書類には何と書いてあったのですか」
ペリーは笑いを堪えつつ、ウィリアムにそっと耳打ちをすると、ウィリアムも笑った。一頻り笑うと、
「悪戯ですね、それは」
甚三郎はウィリアムに送られて、別の船で岸についた。そして、藤堂家上屋敷に戻ると、和泉守の嫡子である録千代が出迎えた。
「甚三郎とやら、役目大儀である」
庭先ではなく、上屋敷白書院で対面している。
「で、首尾の方はどうであった」
と、録千代は若者らしい好奇心で甚三郎に尋ねた。甚三郎は、
「途中、困難もありましたが、無事お役目を終えたのは終えましたが」
といって、表情を曇らせた。
「どうした。何かあったか」
「いえ、当方はメリケンの言葉に不慣れな者故、難渋を致しました。それと、ペルリに見つかり、思ったほどの収穫は得られましたかどうか」
録千代は、ペリーとあった事に反応した。
「ペルリにあったのか。どのような人物であった」
「はあ、大きゅうございました。俗にいう雲をつかむよう、とは申しますがその口上にまごうことない大男でござりました」
「それで、ペルリと会って、無事に良く戻ってこれたな」
「短筒を突き付けられた時は覚悟はしましたが、しかし通詞の者が仲立ちをしてくれたおかげで、このように」
録千代は何度も頷きながら聞いている。
「それで、収穫はどうであったのだ」
甚三郎は袖から取り出したものを見せた。録千代は、
「これは、なんじゃ」
といって、パンを取上げた。
「それは、彼の国の者が食するものでござる。実は、それに何かを塗って食すると美味でござったが、生憎その物を持ち出すことはかないませなんだ」
「そうか。……これが食べ物であるとはのう。……甚三郎、これを余に呉れぬか」
「それはよろしゅうございますが、大殿にお伝えいたしますが、よろしゅうござりましょうや」
「構わぬ。後は、そちの好きにせよ」
といって、録千代は立ち上がり、
「役目大儀」
といって、白書院を出た。中川老人は、
「今日はゆるりと休まれよ。そして、明朝、津に戻ってもらいたい」
といった。
「元よりそのつもりでござった。短い間でござりましたが、お世話になり申した」
「いや、お役目を果たせて良かった」
翌朝、手に入れた物を行李に入れて風呂敷で包んで斜め掛けに背負い、旅の姿に変えた甚三郎は津に戻った。
戻るなり、和泉守に目通りを願うと、和泉守は待ちわびた側室を迎えるようににこやかな顔になっていた。
「庭先ではなく、こちらに通せ」
甚三郎が行李をそのままに和泉守の居館に入った。そして、和泉守が待つ書院の間の下座で平伏すると、
「役目大儀。ちこうよれ」
と和泉守が扇子で招く。甚三郎は少しにじり寄って、再び平伏すると、
「で、首尾は如何」
「これでござりまする」
と、近くの者に行李を渡すと、そのまま和泉守の膝の前に置かれた。和泉守が直に行李を開けようとすると、パンが一つ減っているだけの状態ですべての収穫物が入っている。
「ほう。これはなんじゃ」
と先に聞く物が同じあたり、やはり親子である。
「それは、彼の国の者が食するものでござりまする」
と甚三郎が説明すると、和泉守はそのまま口に放り込んだ。家臣が慌てている。
「……なんじゃ、これは。えらく味気ないものであるな」
「実は、それにはある物を塗れば美味でござりますれば」
「なるほど。醤油のようなものがいる、というわけか。で、それはあるのか」
「そこまでは出来ませなんだ」
和泉守は何も言わず、乾いていく口腔内を少し不快に思った。家臣が茶を持ってくるとそれをすすって漸く落ち着いた。
「向こうでも、蝋燭は使うものらしい。それと、これは何じゃ」
「おそらく、向こうでは煙管のようなものがないのでありましょう、そのまま直に火をつけて吸っておりました」
「まあ、よい。……これは」
と和泉守は例の書類を開いた。蘭語で書いているのである。
「これは、あの者共の何かの手がかりになるかもしれんぞ。早速、通詞を呼べ」
家臣の中で蘭語に詳しいものが居たのが幸いした。
「これを読んでもらいたい」
と家臣に例の書類を渡した。その中の紙を丁寧に読んでいくと、
「これは」
といった。
「何と書いてあるのだ」
和泉守が固唾をのむ。
「こちらの紙には、こう書いてござりまする。『イギリス女はベッドが上手、フランス女は料理が上手』と」
和泉守は何のことかさっぱりわからない。
「どういう意味だ」
「恐らく、エゲレスの船を女に見立てておるのでしょうかな、ベッドなるものは存じかねまするが、恐らく船の性能を表しておるのではないか、と」
「つまり、エゲレスの船は強い、という事か。では、そのフランス女云々とはどういう意味か」
家臣は暫く真剣に考えた。
「こうではありませぬか。フランスの船は、兵糧が十分にあり、長戦にも耐えうる、ということでは」
「なるほど。エゲレスは船の力をいい、フランスの船は長戦に耐えられるだけの力がある、ということか。しかしペルリがなぜそのような事を調べているのだ」
「ペルリとしては、エゲレスやフランスよりも先んじて我らと条約を結ぶ為、他の船の力を知っておく必要があったのでしょうな」
「これからは、メリケンだけを相手にできぬ、ということか。して、もう一通のやつはどうじゃ」
「……これは、『音のしない川は水深がある』と書いてござりまする」
またしても意味が分からない。
「何かの符牒であろうか」
「殿。これはもしやすると、脅しではありませぬか」
「脅し、とは」
「音のせぬ川とは、我々には見えぬところを流れている川でありましょう。つまり、『見えぬところからいつでも攻める事が出来る』という事でござりましょうか」
「我らの勢力とは隔絶しておるほど、向こうが優れている、と見極めたわけだな」
和泉守は忌々しげに唇をかんでいる。
「しかし、現に我々では手も足も出ぬ。これは、このまま御公儀にお伝えしよう」
といって、和泉守は筆を執った。
「澤村、ご苦労であった」
これ以降の甚三郎については詳細が残っていない。忍びである以上、足跡を残すことは出来ないからである。
だが、甚三郎が持ち帰ったものは津藩にとって重大な影響を与え、津藩は先んじて西洋軍制での訓練を行うようになった。だが、その中に甚三郎の姿はない。