長野主膳 1

「いやあ、それにしてもようござったな、次郎どん」

 滝野村の人々が、次々に挨拶にやってくる。

「これはこれは」

 と、次郎左衛門も、黒の紋付がひらひらと舞うように方々挨拶をして回っている。

「これで、ようやっと肩の荷が下りましたわい」

 次郎左衛門の肩の荷、というのは妹の瀧の事で、今年で三十をこえる年増であるが、この度、次郎左衛門方に居候をしている長野主馬という者の所に嫁ぐことになったのである。

 その長野主馬は、妻となった瀧の隣で肩をいからせて固まっている。


この長野主馬という男の前半生は、

― ― 伊勢国飯高郡滝野村住。

とだけあって、それ以外は一切分からない。他に、上州長野氏の出である、ということだけである。上州長野氏で一番著名なのが、上州の黄班と云われ、甲斐の武田信玄を何度も撃退した長野業正であるが、その上州長野氏、という出自も怪しい。

 というのも、この男は酒宴になると肥後訛りが出たというのである。もしこの肥後訛りが生まれついてのものであれば、肥後長野城の長野惟久という人物が浮かび上がる。この惟久という人物は、肥後の宮司であり大名でもあった阿蘇氏の重臣で、その阿蘇氏は島津義久の肥後平定の前に敗れ去り、その長野惟久は討死したのであるが、その一族のうちのなにがしかが流浪の末に伊勢の飯高郡にたどり着き、土着したという考え方は成り立つ。だが、当の本人はあくまで上州長野氏の出自を名乗っている。どちらにせよ、それを判別できる史料は残っていない。とにかく、この主馬の出自は定まっていない。

 ともあれ、主馬の足跡が確実に分かるのはこの婚礼から、といってよい。この男が一体どういう経緯で、この滝野村の次郎左衛門方に仮住まいをすることになったのか、という事についても決定的な史料はない。ただ、主馬は国学をよくしているのは確かなようである。

 国学とは、日本研究といえる。和歌、歴史、文学の古典を調べることで、それは日本人の精神造成についての研究という事になる。現代では歴史の教典から古事記などの神秘性は悉く排除されているが、この頃の歴史書は当然ながら古事記であり、日本書紀であり、和歌集である。必然として、主馬も国学に身を浸すのだが、主馬は非凡であった。本居宣長を師と仰いでいたようで、古事記をはじめとする、どちらかというより国学の歴史派、という立ち位置だったようである。

 具体的に誰から教わったのか、師についても分からない。が、その見識については折り紙付きだったのは、後年の彼の事績を見れば明らかである。

 主馬が滝野村を出たのはそれから程なくの事のようで、伊勢から始まって東海の三河、尾張、美濃と遊歴し、京にまで上っている事は分かっている。それから近江坂田の市場にしばらく滞在したのち、同じ近江の彦根のほど近い、志賀谷村の阿原忠之進という人物に知遇を得て、「高尚館」という国学塾を開いた。

 高尚館を開いて一年余り、少しずつではあるが塾生も増え始めている。無論、現代のように金銭を受け取るわけではなく、厚意によって生活が成り立っている。

 天保十三年秋の頃に、三浦北庵、という市場村の医師が高尚館を訪ねてきたところから、主馬の人生の歯車がうなりを上げ始めた。

「実は、貴殿と昵懇になりたい、という方がおられてな、是非に、と仰せなのだが、どうですかな」

「それはよろしゅうござりますが、何処のどなたさまで」

「彦根におられる井伊銕三郎という御方でござりますが」

 聞いたことのない名のはずである。

「何故、それがしにあいたい、と」

「高尚館にこのところ若い武士が出入りしておられましょう」

「はい」

「それは皆、その銕三郎様の御配下で、宇津木六之丞様の家来の方々でしてな、主馬様の御見識の高さに皆が噂をしておりました。それを、銕三郎様が聞きつけ、一度お会いしたい、と、こういう事でござります」

「なるほど。それがしのような未熟者をそのようにご思慮下さるのは嬉しい限りでござる。すぐにでも彦根に参りましょう」

 史料によると、天保十三年十一月二十日となっている。主馬は供を連れて彦根に入った。彦根は井伊家の本領で、祖は徳川四天王の一人として有名な井伊直政で、元は駿河にある井伊谷の豪族であったが、今川義元による侵攻を受けたり、あるいは武田信玄に攻められたりしてたびたび本領を失っている。直政は徳川家康を頼り、数々の武功、あるいは調略などを立てて彦根に根を下ろして以来、一度も転封をされることなく、こんにちまで数人の大老を輩出している名門である。そこに呼ばれるのは、主馬でなくとも小躍りして喜びたくなるのは必然といえよう。

「ただ一つ」

 と北庵は条件を出した。それは、会うのは夜にしてほしい、という事であった。

「何故、そのような事を仰せある」

「銕三郎殿たっての頼みなのだ」

 少し不思議であったが、主馬はその通りにすることを約束した。


 彦根の、銕三郎の屋敷は、彦根城の東、尾末町にある。主馬はそこに忍び込むようにして入った。

 月が迫るようにして近いため、月光によって作られた影の輪郭が立っている。主馬は、表門の門番に取り次ぐと、程なくして案内された。中に入ると、とても大名子息の屋敷とは思えぬ質素なもので、さしずめ、下級旗本かあるいは中堅の御家人が使うような程度の屋敷である。

 主馬は屋敷の案内であろう小姓らしき青年と共に回廊を歩いている。中庭の木々は丁寧に手入れがされていて、中央に柳が植えられている。

「どれも、殿がお一人でやっております」

 と小姓が教えて呉れた。どうやらここの主人、銕三郎は余程几帳面か、あるいは暇を持て余しているらしい。銕三郎は澍露庵という茶室にあって、待っている、という事である。

「長野主馬でござる。お招きに預かり参上仕りました」

どうぞ、これへ、とという返事が返って来たので、主馬は作法通りに茶室に入った。

 この屋敷の主である井伊銕三郎は、名を直弼といった。後年の頃の肖像画のような、中年の如き顎に脂のついた太々しい様子ではなく、痩せた団栗に目鼻をつけたような細面を、これまた外から見ても分かりすぎるほどの締まった体に乗せている。少なくとも、後年の事績とどうにも結び付かない。

「井伊銕三郎です。このような時分に御足労願って申し訳ござりませぬ」

 銕三郎は慇懃に断り、静かに茶を立て始めた。その姿、動作について、茶にも明るい主馬をして、

「すきがござりませぬな」

 と言わしめるほどであったから、どれほど造詣が深いかよくわかる。

「長野様は」

 と、茶を差しだしながら銕三郎は言うが、銕三郎は主馬と同い年で、しかも誕生も主馬が十三日ほど早いだけ(銕三郎は文化十二年十月二十九日で、主馬は同じ文化十二年十月十六日である)で、地位や身分から言えば明らかに銕三郎の方が上のはずであるのに、主馬については明らかに、神棚に飾るようにして接した。

「主馬でよろしゅうござります。様などとは滅相もござりませぬ」

「いえ、貴方様にはいろいろと教えて貰わねばなりませぬ。宇津木より聞いております」

「滅相もない事でござりまする、それがしが修めた学問はまだまだ途上にて、とても」

「謙遜も過ぎれは嫌味に聞こえまするぞ」

 銕三郎はそういって遜る主馬を制した。

「長野様は、世情をどうごらんになられまするか」

 主馬は淀みなく答え始めた。天保の飢饉によって中央である江戸が大きく疲弊し、それが地方に飛び火した結果、生田万や大塩平八郎のような一揆が起こることになった。殊に大塩の乱については、大塩平八郎が大坂奉行所の与力であったことからその衝撃は大きく、叛乱自体は失敗に終わっていても、この一事でもって幕府の威厳はすでに地に落ちている。さらに外国の船がこの日本にやって来たことも、混乱の原因となり、この国は混迷を増すばかりになるだろう、というような事をいった。

「では、どうすればその混乱は収まりましょう」

「当面は収まりましょう。されど、それでは終わりませぬ。かつて古の唐では、陳勝と呉広という者が乱を起こしたがいずれも平らげられてしまいました。しかし、それを呼び水として、ついに国が替わりました」

「そのような事と同じ事が、この国に起きる、という事でござりましょうか」

「そうなるかもしれぬ、ということでござります。このままでは、舵取りは難しゅうござりましょう。出来れば江戸の将軍様や老中の皆々様に頑張っていただかねば困りまするが、今の御公儀の様子ではそれも叶わぬ事でござりましょう。そうなれば、誰かが御公儀の中に入り、腕を振るってもらわねばなりませぬ」

「誰がよい、と思いまするか」

 そこまでは、と主馬は頭を振った。ただ、と付け加えた。

「今だ世に出てこざる者の中に、あるいは」

 銕三郎はそれ以上聞く事をせず、主馬も静かに茶を飲み干した。双方とも心得があるだけに二人の佇まいはそれだけで一幅の絵のようである。

「今宵はこれまでに致しましょう。明日、お越し下され」

 銕三郎は最後まで丁寧であった。

 それから二日、主馬と銕三郎は埋木舎で語らいあった。時勢の事、幕府の事、聞く得る限りの外国の情勢、それについてどうあるべきか。最後の日、銕三郎は主馬に手をついて、

「よろしくご指導くだされたい、先生」

 と頭を下げたのである。これにはさすがの主馬も呆気に取られて、

「お手を上げ下され。そのようなことを致さずとも、こうして語らう事は出来まする」

「そうではござりませぬ。それがしは、よろず世情に疎うござる。こんにち先生のような御方と巡り合えたのも、これは天の思し召しでござりましょう。これを逃す手はない、万が一、万が一、それがしが世に出る事があらば、助けていただきたい」

 銕三郎のいう事が冗談の類ではないのは表情が物語っていた。

「微力ながらお手伝いすることを約定いたしましょう。……、一つ、お訊ねしたい」

「なんなりと」

「何故、夜に会う、という事にされたのか、それが知りとうござる」

 銕三郎がいうのには、部屋住まいの身であり、それもどこかの大名家に養子に出される運命のはずでありながら未だそれも叶わぬ埋れ木のような自分が、一人前に客をもてなして時勢を論じることを世間に知られることが恥ずかしい、という事であるらしい。それは同時に世に出たい、という銕三郎の深層心理がそうさせているのかもしれず、しかしそれが叶わぬであろう、という事も察していたに違いない。

 天は、時に悪戯をするようである。銕三郎の兄で、当主井伊掃部頭直亮の養子となっていた井伊直元が、江戸で病死したのである。元々直亮には実子がおらず、直元も直亮の弟であったが、これによって銕三郎が直亮の養子となったのである。名も、銕三郎直弼となった。時に、弘化三(一八四六)年である。これに伴って直弼は江戸に向かう事になり、江戸において当主直亮の世子、つまり後継者として着実に階段を上っていくことになる。

 一方の主馬もまた主膳、と名を改め、直弼と並走するようにして取り立てられていった。

 その手始めが、主膳の彦根弘道館国学教授就任である。嘉永三(一八五〇)年、直亮が没すると直弼が当然に当主となり、直亮派の家臣たちを一掃して遠ざけ、代わりに自身の腹心であった宇津木六乃丞や犬塚外記、多田帯刀などが直弼の側近となるように、主膳は若い家臣たちの教育係を務めるようになった。これだけの十分な出世であることに間違いないが、さらに直弼は主膳について政治的ブレーンとして、江戸在中においては彦根の実質的な主導者として直弼の改革に力を貸した。この二年後、主膳は正式な士分(石高百五十石)として取り立てられる事になる。

「この度はまことにおめでたき限り、ようやっとむくわれました」

 というような事を、瀧は言ったに違いない。それまで全く流浪であった主膳がようやく歴史上の日の目を見ることになったのだから、これ以上の喜びはないであろう。主膳は、というと瀧の言葉に何度も頷いてはいる。

「ご不満でも、ありましょうか」

「不満はない」

「では。……」

「正直申して、あのような非常の御方が世に出る、というのは世が混迷に至る前兆だ。これからの世のかじ取りは十分に難しくなるに違いない。平凡な者が握れば船が転覆するが、殿のような御方が握れば、あるいは上手く嵐を抜けられるやもしれぬ」

「はい」

「だが、その後は、潔く舵を別の者に渡して、退くことをしなければ全うは出来まい」

 その言葉がこの先にどういう意味を持ったのか、この時の主膳は分かるはずもなく、恐らく一般論として述べている。が、この一般論は至極真っ当といえよう。

 その混迷が早速やって来た。嘉永六年である。言わずと知れたペリー来航である。彦根に帰って来たばかりの直弼は急遽江戸に出府することになり、主膳も江戸に向かった。到着したのは七月二十四日である。

 この頃、江戸政権の中心的人物は阿部伊勢守正弘で、正弘は、ペリーが携えて持ってきた米大統領ミラード・フィルモアの国書を国内に見せ、朝廷はもとより外様を含めた諸大名、市井の一般市民に至るまで意見を募った。が、これは為政者としては本来やってはいけない悪手といえる。徳富蘇峰などは「優柔不断で八方美人」と、辛辣な言葉で評しているが、本来政治というの決断である。その点でいえば、正弘は政治家の適性は低かったのかもしれない。無論、意見を求める、という事自体は悪くはないが、それを取りまとめて決断し、四方にそれを飲みこませるだけの器量を、この肥満体の男は持ち合わせていなかった。

 その意見を求められた一人に、当然ながら直弼がいる。

「掃部頭殿は、如何に」

 正弘はただでさえ白い顔が余計に冴えて、今にも喀血しそうなほどに青白い。同じ色白でも、生色豊かな直弼とは全く対照的といえよう。

「その、メリケンとやらとは国交を結ぶべきではない、と存じまするが」

「それは、何故」

「元々、そこのメリケンは邪宗の国。この日ノ本は邪宗を全く良しといたしませぬ。邪宗が入り、門徒が現れれば、また戦国の世のように荒れ果てるのは必定。ならば、それを防ぐ意味でも、根から絶つほかござりますまい」

 直弼はさらに続けた。

「そもそも、メリケンが我らに対して国交を開け、というのは何か意図があることは明白。されど、その意図が読めぬ以上、むやみに国交を開いてわざわざ毒を体内に入れる法はござらぬ」

「信用できぬ、と仰せか」

「左様。メリケンが何者であるか判別いたし、それでもなお益、とするならば国交を結べばよろしかろうと存ずる」

 直弼は意見書にも同じ事をしたためて正弘に提出した後、桜田門のすぐそばの上屋敷に戻った。

 主膳が一番に出迎えると、直弼はそのまま部屋で二人になった。

「いかがでござりましたか」

 主膳の問いに直弼は正弘とのやり取りを細やかに伝えると、主膳は、

「少々悪手やもしれませぬ」

「悪手とな」

「左様。殿の仰せは御尤もこの上なく、思う所はそれがしも同じでござりまする。されど、事ここに至っては最早その事は叶うべくもござりませぬ」

「何故、そう思う」

「伊勢守様は、すでに彼の国の親書を渡されておりまする。つまり、メリケンは我々に国を開いてほしい、という意志の表れ。と同時に、あのペルリなる人物が率いていた黒船は戦の為の船。とあれば、万が一国を開かぬ時は容赦なく大筒でもって震え上がらせるつもりでござりましょう」

「では、それに屈せよ、というのか」

 左様でござる、という主膳の声に感情の抑揚がない。

「しかし。……」

「ご懸念はそれがしもわかりまする。しかし、益がないわけではござりませぬ。それは、異国の技術を盗むことでござる。恐らく、舟戦においても、陸に上がった戦においても、我々は蹂躙されるが如く悉く負けましょう。それが目に見えてなお戦を仕掛けるのは愚の極み、と申しましょう。ならばここは、異国の技術を盗みに盗んで、力が対等になった時、改めて門戸を閉じて戦えばよろしかろうと存ずる」

 開国派、として命を狙われた後年の勝海舟と同じようなことを主膳はいった。ここで注目するべきは、主膳がどちらかというと保守的立ち位置になる国学者である、ということで、攘夷論を振りかざしてもおかしくないはずだが、一時的にとはいえ開国するべきだ、という事を直弼に具申したのは、意外な事といえる。

「耶蘇の教えはどうする。開けば、伴天連が大挙して押し寄せてくるぞ」

「ならば、場所をお決めになるとよろしかろうと存ずる」

「住む場所を、限れ、と」

「そして、そこには誰も立ち入らせることを禁ずれば、教えが広まることは防げましょう。それを嫌がるのであれば、出て行ってもらえばよろしい」

 なるほど、と直弼は膝を打った。そして、すぐさま正弘にこの事をもう一度意見書ととして提出したのである。

 だが結果は、直弼の意見は通らず、むしろ水戸の徳川斉昭ら攘夷派が幕政の中心に据えられる事で、事態は一気に攘夷へと傾いていった。直弼の幕政においての不遇の時期といえる。攘夷派はさらに幕政を堅固にするため、開国派の松平和泉守乗全、松平伊賀守忠固の二名を老中罷免として政治的に失脚させることで、開国の目を摘み取ったのである。

 主膳はこのような事に政変を目の当たりにしても平素と様子が変わらない。

「いずれ、攘夷の連中は一斉に駆逐されましょう」

「何故そう言える」

「この勢いは長く続きませぬでしょう。無論、それで彼の国が退けばそれでよろしゅうござりまするが、恐らく退くことはござりますまい。向こうの将軍は軍船でもってやってきておりますれば、手ぶらで帰ることは沽券にかかわること。開国は時間の問題かと」

 主膳の言う通り、正弘は翌年に再来したペリーに屈し、日米和親条約を締結させた。それは攘夷派の外交的敗北といえた。これによって徳川斉昭は海防参与を辞任し、攘夷派はその勢いをそぐことになる。

 さらに安政と元号を改めてからは安政江戸地震で水戸の攘夷の先鋒的存在であった藤田東湖が圧死し、その翌々年の安政四(一八五七)年には、正弘自身が急死してしまう。これによって、老中首座だった堀田備中守正睦は開国派であった松平和泉守乗全を再任し、幕政は急激に開国に傾いた。

「これで、舞台は整った」

 主膳は一連の騒乱についてそう、一言つぶやいただけである。だがこの一言はいかにも不謹慎であり、場合によっては転覆の願望とも受け取れる言葉といえる。それゆえ、自室で一人になった時につぶやいた。だが、肝心の役者は、まだ表舞台には出ていない。主膳は、井伊直弼という非常の役者を表舞台に立たせなければならない。

 その絶好の機会が、将軍家定の重態というのは全く以て不敬極まるが、しかしこのような時でなければ、直弼が立つ事はない。将軍家定の容態の悪化は、次期将軍の争いとなる。ここで厄介なのは、候補者である一橋宰相と呼ばれ、英明の評が高い徳川慶喜と、こちらも同じく賢明といわれている紀州の徳川慶福の支持者にそれぞれ開国と攘夷の双方が入っていることである。例えば慶喜を支持する松平春嶽と島津斉彬はそれぞれ開国と攘夷であり、慶福を支持する南紀派、と呼ばれる者たちは基本路線として開国であっても、松平容保のように孝明天皇の影響によって攘夷である者もいる。

 つまりはそれぞれの政治的目的を達成する為の手段として、近道を模索した結果、二人の後継者が担がれた、と見るべきであろう。そして主膳の政治的目的は直弼が政治の中枢に座らせて能力を発揮させることである。

 だが、慶喜では中枢に入ることはおろか、冷や飯を食わされて、表舞台に立てることはないだろう。慶喜自身が開国なのか攘夷なのか定かではないが、とにかく慶喜の周りは先ほどの二人のほかに父であり、前の海防参与であった斉昭、さらに親藩の徳川慶勝といった面々が取り囲んでいる。そして何より老中首座の堀田正睦が慶喜を後継者に考えているのである。これでは、直弼が世に出る機会は永久にないであろう。

 しかし、当の直弼自身は、どこかで慶喜に会ったのか、

「あの御方なれば、御政道の立て直しは叶うやもしれぬ」

 と、主膳に言った。それどころか、慶喜が次の将軍であれば、もう百年は安泰かもしれない、というようなことまで言った。しかし、主膳からすれば、それは直弼が表舞台に立たない、という事でもある。井伊直弼という人物を、骨身の髄の芯、あるいは神経ほどの底から見ている主膳には心情はわかっているつもりである。慶喜を将軍にし、直弼が老中の筆頭になった時、歯車が噛みあえば乗じた力がでて、黒船の心臓部のからくりのような突進力が生まれるかもしれない。

(だがそれはないだろう)

 と主膳は思っている。なぜなら、直弼と慶喜の関係は、いうなれば二人の英雄は並びたたぬようなもので、どちらかが二歩でも退いて立てる、というようなことは出来ないであろう。慶喜が退こうとすれば春嶽や斉彬の後を事実上継いだ島津久光などが食ってかかるであろうし、直弼が退けば譜代の大名たちがこぞって慶喜に文句を垂れて空中分解する。

 恐らく二人の性質は実は似通っているのではないか。慶喜の評判を聞くにつけ、主膳はそう感じていた。

 だからこそ、慶喜と直弼は合わない。その合わぬまま政を行えば、政治は停滞する。それは異国にとっても嫌う所であろう。だからこそ、どちらかが退かねばならない。そして主膳は、慶喜に退いてもらうつもりでいる。

 だがそうなると、慶喜の対抗馬が必要となり、それが前述した紀州の徳川慶福になる。つまるところ、慶福は、主膳にとって直弼の表舞台の為に必要な駒、といえる。だが、主膳にはその駒にたどり着くには遠い。足掛かりが必要になってくる。

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