雷 第二十二話

井戸で汲んだ桶の水で手拭を浸し、十兵衛が上半身のさらりとした汗をぬぐい、また手拭を絞っていた頃、中村がいかにも腹立たしげに足音をわざとらしく立ててやって来た。
「……借ります」
 ぼそり、と呟いた。
「ああ、私はもういいから」
 十兵衛が立ち去ろうとしたとき、中村は
「まぐれですから」
 と今度ははっきりと言い切った。
(まぐれか)
 十兵衛は静かに小袖を直しながら屯所に戻っていった。
 飯田町の屯所が随分と広くなった。
 広くなったのは別段敷地が広がったわけではなく、八郎に感化されて入って来た勤皇志士が激減したからである。そういう意味では本来の浪士組に近い組織にはなったが、そもそもがいうなれば騙って作られた組織だけに、その綻びはすぐに出た。
 ましてや、京で活躍している新選組の「局中法度」のような掟があるわけではなく、結束という点では見劣りしていたのも事実である。
 その中で、庄内藩は隊員を募集した。すでに元来あったいうなれば「浪士組」の骨格はすりこ木ですりつぶした様にすでに原形をとどめておらず、その事がさらに隊員たちの離反を招く、という悪循環に陥っていた。
 その上、旧来の新徴組と新たに募集された人員との間の軋轢も大きな問題になっていて、旧来の新徴組は肩身の狭い思いをしていた。
 元治元年の新徴組は新しく生まれる前の、生みの苦しみの最中であった。
 その頃、京で名を上げていた新選組の情報が、新徴組小頭である沖田林太郎のもとに齎されている。沖田の弟である総司が、新選組の隊長をしているとの事であった。
「あれから、総司は活躍しているようだな」
 林太郎が目を細めているのへ、十兵衛は尋ねた。
「京ではどうなっているのですか」
「うむ、総司からの手紙によるとだ、京で別れてからすぐに政変があったらしい。なんでも長州の連中が朝廷に取り入って攘夷を行おうとしたのだが、薩と会が防いだようだ。それで長州は京を追われてしまったという。それだけではないぞ、その生き残りが池田屋とかいう所で、大胆な計画を練っていたようだ」
「計画ですか」
「ああ、どうも京を焼き払い、帝を長州で迎え奉る計画だったらしい」
「なんと。それでは、京はすでに」
「いやいや、それを未然に防いだようだ。その池田屋に乗り込んで、片っ端から成敗したらしい。まあ、これで攘夷連中も少しはおとなしくなるだろう」
「それだけですか」
 いや、と林太郎は再び手紙に目を落とすと、今度は
「その後だな。長州が御所に向かって鉄砲を撃ったらしい。それで長州は朝敵になり、散々に追い散らした、とある」
「では、総司殿は」
「その戦で手柄をあげたらしい。まあ、手柄と言っても何の何某の首をとった、とかいうことではなく、京の御所を守った、ということだろうな」
 林太郎が手紙をしまい込むのをよそに、十兵衛は部屋に戻った。戻るなり、
(何をしているのだ)
 と、まるで説教を受けているように肩をすくんで座っている。
 十兵衛は桜田門外での襲撃を目の当たりにし、清川八と出会って尊皇攘夷の志を持っていたのではなかったのか。それがずるずるとこのよなところで甘んじてしまっている。
「長州の連中のほうがよほど筋が通っている」
 十兵衛にとって、林太郎の手紙の内容は敗北であった。それも、完膚なきまでに叩きのめされた、完敗である。十兵衛は自らの平凡さに愛想が尽きるような思いであるが、そう簡単に断ち切れるようなものでもない。清河八郎が麻布で暗殺されてから、清河の薫陶、あるいは影響を受けて浪士組に入った者が次々と脱盟していった事はすでに述べたが、脱盟者たちは次々と攘夷決行の為にその身命を削って夷狄と戦っている。自分は、その曙たる桜田門外で、ゆばりを垂らしてみていた筈ではなかったのか。そして八郎に出会った時も、その思いが八郎への不信感を勝っていたから浪士組に入った。にもかかわらず、江戸では不逞の浪人を取締るだけで他は何もない。
「このままでいいのか」
 いいのか、と十兵衛は何度も言い聞かせた。今こそ、動くべき時ではないのか。
 そう思い立つと、十兵衛はゆっくりと腰を上げた。刀を差し、わずかな金を路銀にして草鞋を履いて屯所を出た時、すでに月はクレータの窪みがはっきりと肉眼で見えるほど大きい。
「夜回りでござる」
 門番にそう告げると、門番は眠たげに眼をこすりながら、
「よろしゅうござります」
 といって表門脇の出入り口の扉を開けた。
 一陣、十兵衛の体にまとわりつくように風が吹くと、砂埃が目に入った。涙を流しながら拭き取ると、表門を向いて頭を下げた。
「どこに行かれるのです」
 声の主は中村であった。脇の扉から出て来た。
「見回りでですよ」
「……長州」
 十兵衛の眉が動いた。忠蔵は確信を得た笑いを浮かべて、
「やはり、攘夷ですか」
「……あなたは、安政の頃は」
「庄内にいました。江戸詰めになったのは去年からです」
「ならば、ご存じあるまい。あの変を」
「大老が水戸浪士に殺されたのは知っていますが」
「そうではない。あの大老であった井伊直弼が、桜田門外で殺されるところを見てはいまい」
 十兵衛は思い出すと今でも身震いするのである。
「あの時、まさしくあの場所に私はいた。いや、関わったわけではないがある水戸浪士に、見届けてほしいと言われて、私は見届けた。天地がさかさまになる、というのは聊か使い古した言い方かもしれないが、それほど私の心の臓は波打った。今思い出しても、私はすぐにあの時に戻れる。あの時、あれを見なければ私は何も知らず、薬屋で働いて、とうに刀を捨てていたでしょう」
 だが、と続ける。
「そうなっていれば確実に私は死んでいただろう。だが、こうやって私は今生きている。そして、清河先生と出会い、今がある。という事は、私の原点は攘夷であり、ここにはない」
「だから、長州ですか」
 中村はため息をつきながら言った。
「その剣才を御公儀の為には使われぬのですか」
「原点は、攘夷です」
 どうあっても揺るがぬであろう十兵衛の答えに、中村は何も言わず、屋敷に戻った。扉の軋みながら閉まる音は、十兵衛との永訣の合図になった。

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